<ダルエス観光>

28日(金)朝の日差しが眩しい。9時にダニエルさんがホテルへピックアップに来た。早速に朝の魚市場バンダビーチへ向かってもらう。昔は建物も無く浜で小さな商いだけだったが、2002年に日本の援助で生鮮市場として大きく変貌した。いくつもの建物が並び、魚の水揚げ、卸と小売が機能的に出来ている。糶の声が喧騒の中に聞こえる。我々が直接漁師から買った出来た昔の面影は少ない。

当時は無かった貝殻の売り場もあって、観光客を目当てに声を掛けてくる。民族衣装のカンガを巻いた女性も多く活気溢れていた。かっての様に伊勢海老や蟹などが見られなかったが、小エビや鯵など形の揃った小型のものが多い。魚が一般大衆の料理に使われ始めたのだろう。

水際よりエイを引きずる尾の重さ

ラマダンの少年洗う貝の殻

次に国立博物館を訪ねる。等身大以上の黒檀で彫られた男女のマサイ像が入口の左右に立っている。

奴隷として売られた黒人受難のアラブ支配の時代から、ドイツ領、マジマジの反乱、第一次大戦以降の英領そして独立、ザンジバルとの併合、そして、ニエレレ大統領の死までの歴史が写真を主体に展示されている。奴隷や植民地の時代から、独立後は内乱もなく平和な国なのが分かる。

民族館への中庭に、1998年8月7日にタンザニアとケニアの米国大使館がアル・カイダに攻撃を受けた同時テロでの犠牲者のモニュメントがある。

その後の2001
年の9・11のテロや米国のアフガン攻撃、イラク攻撃への口火のひとつが、ここにあり、たった10年前の出来事とは思えない遠いものに感じられる。

守宮落つ国父の乗りし高級車

赤道直下シーラカンスの鱗雲

民族館は質素な中にも出来るだけの展示をしている。子供たちに分かるような身近な生活道具や、動植物の説明がなされ、中でも水槽に置かれたシーラカンスのアルコール漬けは、昨日のNHK取材の話もあって興味が湧く。

次は昔からの下町繁華街で我々もよく買い物に出かけたカリアコへ行く。今は巨大なコンクリの屋根の下で様々な商品が安く売られているが、ダニエルさんの勧めで下車しないで、そのまま眺めるだけとした。喧騒の中で、ぎりぎりの車間距離で運転するダニエルさんの隣の席から観察すれば、今は活気を越して物騒な雰囲気だった。後日の日本大使によれば、犯罪が多いので今は立ち寄らないように云っているらしい。

その足で、ダルエスサラーム大学へ行く。かってはタンザニア唯一の総合大学だったが、今でも広大な敷地に留学生も含めて多くのエリート学生を擁している。ここは構内を車で走っただけ。

大学を抜けて、民芸品店やマコンデ村へ行く。マコンデは黒檀の彫刻。昔は顔に入墨をしたマコンデ族の職人が数人で個々の店を道路脇に出していたが、今は一箇所に集まって、数十件の店を連ねた村を形成している。顔の入墨も見えない。マサイの立像など安易な具象的な量産土産物が多い。昔のような一品としての芸術的なセンスが無くなっている感じがする。

ザンジバル紋様のチェスト箱や家具なども作っている。これは出来栄えの良いものある。

彼等は明るい芸術集団で、且つ商売人で、下手なスワヒリ語で冷やかしながら見るだけで楽しい。

次はティンガティンガ村へ向かい、この村の職人達が使っている食堂で昼食にする。魚か肉とカレーなど定食が4〜5種あって、何れも80円以下の安さだ。キリマンジャロ・ビール(200円)も一緒に、それぞれ好きなものを注文する。私には美味とは思えないが、昔を懐かしむ。

1990年に出来たこの村は日本でも紹介された画家のティンガティンガの作風を真面目に継いで、多くの画家を育てる施設も兼ねたこれも芸術家の村。昔は無かったペンキ画で、陽気なデザインが多い。キリマンジャロ・コーヒーの日本での宣伝にも使われた事がある。

ムササニ半島も廻ったが、往時とは、すっかり様変わりして小綺麗なショッピング・モールなど出来ている。

次に、すぐ近くのアガ・カーン病院を訪れる。ここは同行したK夫人と家内が子供を産んだ病院で、とても懐かしい。そこで生まれた男子は共に30代の働き盛りなのを考えると、懐旧旅行の最もたる場所のひとつだ。建物はすっかり綺麗になっていた。写真を撮っていたら守衛に注意されたが、ダニエルさんがそんな事情を説明すれば、笑いながら改めて許可された。

ホテルで休憩して日本語補修校へ行く。白亜の二階の建物で30余年前はここが日本大使館だった。丁度、父兄会の最中で、その父兄を待つ生徒たちが元気良く遊んでいた。生徒数は小一から中三まで20人とか、往時と余り変らない。敷地内の当時の学舎は日本人会ホールの看板が吊ってある。

Eさんの詩吟会の友人のお孫さんがこの学校の生徒で、日本の参考書などを託送され、それを手渡すためにお宅へ行くことになった。EさんとYさんはその子のご家庭に夕食を招待された。

Kさん夫婦と我々は、今回の車椅子プロジェクトではタンザニア側で尽力しているCさんと会食する。70年代にこの地で一緒に働いた仲間なので、話は尽きない楽しい夕食となった。「香港」と云う中華料理店で美味くて安い。今回の旅行では都合3回もここで夕食を摂った。


<パンダビーチの市場>

<大使館襲撃テロのモニュメント>

<マコンデ村:左は黒檀の彫刻でマサイ像などが多い、右はムニンガ板へザンジバルの紋様を彫る>

精霊を黒檀に彫るサングラス

蝿どっと八十円の定食屋

涼しげにカンバスの絵を量産す

<ウガリ定食とダニエルさん>

<ティンガティンガの店>

<次男が生まれたアガ・カーン病院>

5年間住んだ昔の我家は車の横の一階です>

吾子生家三十余年の日焼かな

帰路に我々が住んでいたフラットへ立ち寄るも、今は現地の家族が住んでいるので、外から眺めただけだが、とても小さく古ぼけて見えた。

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