バルチット城から、フンザ川の対岸にあるナガールへ行く。フンザ川を渡る川岸では砂金取りのテントが6〜7軒ほど張られていた。家族でいるのだろ、、幼い子供たちが貧しい服でわれわれに近づいてくる。学校も行ってないのだろう。他国からの難民なのだろうか?この地域の難しさと、貧しい一面を見た気がした。でも、決して物乞いはしない子供たちだった。

 目的地のナガールは15世紀後半に作られた王国だ。ナガール王国とフンザ王国は1700年ごろから戦争を繰り返していた。今の関係は分からないが、その間を結ぶ山道は険しく、曲がりくねっている。我々は四輪駆動車に分乗して、渓谷の対岸の山道を登る。ナガールの一番奥に位置する村からはディラン峰から落ちるホーパル氷河を望むことができた。崖の上から眺めると、崩れた黒い瓦礫を纏った巨大な氷河のうごめきが感じられるようだ。遥か下の氷河の近くに数人が見える。日本の若者らしい。下って上るには2時間ほどを要するとかで、我々はここでナガール料理の昼食するにとどまった。

尖峰は「淑女の指」とや春きざす    ヒマラヤの春の空裂く機雲かな 

  銀嶺の裾はあんずの花盛り       衛士の背に藩主眺めし春の景 

春風やたれも長寿の王城下       ヒマラヤの尻尾を洗う雪解川

砂金取り家族の子供たちとナガール地区の子供たち

ホーパル氷河と静かなホーパル村

アルチット村の泳ぎを鍛えるプール↑
 フンザ川とカラコルム・ハイウェイ→
  アルチット村の女性たち↓

朝食後にはすっかり晴れ上がり、先ずバルチット城へ向かった。

フンザ人の起源は、イラン系の北方からの移住民と云われる。しかし、フンザ人には茶色い髪に青い瞳をしたヨーロッパ人のような風貌が多い。アレキサンドロス遠征の末裔と云う説も頷ける。

フンザの王家は960年もの間に亘って、この地域に君臨した。19世紀末にイギリスがフンザを統治して、実権は無くなった。1947年に英連邦から独立し、カシミール地方の帰属を巡っての混乱の中で、フンザ地区はパキスタンが実効支配となった。(インドはこれにクレームを付けているが・・)パキスタン政府は一部の地方をイギリスの統治策に倣って、藩王(ミール)に政治を任せる間接統治とし、ここも「フンザ藩王国」として1974年まで存続していたが、ブット大統領の方針転換で全ての藩王制は廃止となり、名実ともに王国は幕を閉じた。しかしながら現在も藩王一族は広大な土地と財産を持ち、強い影響力を持っていると云う。

可なりに急な石畳を登れば、この城からカリマバードの全体の眺望をしばし楽しむ。

現在のバルチット城はフンザの歴史を伝える博物館の様な役目をしており、内部も含めて一般に公開されている。その改修にはイスラム教はイスマイール派のアガ・カーン4世の財政的な援助によるとの事。ここカリマバードに暮らす人々は、昨日散策した上部フンザの人達と同様に、イスラムの中でもイスマイール派を信仰している。開明的で戒律にあまり厳しくなく、アザーン(礼拝の呼びかけ)はなく、お祈りは個人がジュマットハナと呼ばれる集会所で行う。ラマダン(絶食)をする人も少なく、女性の教育、社会参加が熱心なのも特徴的で、他のムスリムの土地と違い、顔を隠さず外に出て、働く女性が多い。(そう云えば、私の次男は1975年にタンザニアのアガ・カーン病院で生まれた。)

バルチット城の内部はこの城付の日本語ガイドが各部屋を廻って細かく説明し、「予定の時間を30分も遅れたお詫びに・・」と内部の写真撮影が無料にしてくれる粋な計らいもしてくれた。王族の衣装や台所の什器類などから、冬の厳しい寒さを思い知る。また、明時代の通商の手形なども展示されている。

5日目(328日)

雲が流れて青空がところどころに見え始めた。ヒマラヤの山々とフンザの郷を眺めるべく、早速に宿の屋上に出る。雲が標高7000m級の峰に引っかかっているが、天心は抜けるように晴れた。これらの峰々の囲むフンザの郷の中心地カリマバードに目を向ければ、傾斜面の山麓の家々には、杏の花が満開で、併せて、芽吹きポプラがすばらしい春の景色を作り上げている。

魚棲まぬ雪解の川に砂金とり    砂金とる子らは難民春寒し 

  真直ぐな子らの眼差しポプラの芽  風光る谷間に小さき女学校 

瓦礫のせ胎は真青な氷河かな    のどけしや己が影踏み山羊来たり 

バルチット城にて:衛兵↑・大砲↓・アガ・カーン4世↓・フンザの旗↓・台所↓↓

 同じ道でフンザ川を渡り戻って、フンザ王国内のアルチット村へ向かう。
 この村は城壁に囲まれ、フンザと谷を隔てて対峙するナガール王国からフンザを防衛するために築かれた城砦、アルティット・フォートが建ち、また、城壁内部はさながら迷路のようになっており、外部からの侵入を防いできた。村の入り口には樹齢1000年を越える巨木が立ち、藩主・ミール時代に裁判所もしくは集会所として使われた広場なども残っている。
 村の長老たちが入口で集まって我々を迎えてくれた。また、集会所では、女性たちが集まっておしゃべりしたり針仕事をしたりする場所となっていた。石で作られた20m四方ほどの人工池があった。聞けば、フンザ王国の兵は泳ぎが下手で、フンザ川を泳いで攻めて来るナガール王国の兵にやられていたので、王様が兵に泳ぎを訓練させたプールだと云う。フンザと谷を隔てて対峙するナガール王国からフンザを防衛するために築かれた城砦は、すぐ側を流れるフンザ川から高さ約300mの位置にある岩の上に建てられ、村全体を見下ろせ、かつては、この城砦から下の道を通過するキャラバン交易を管理し、税を集めた。
 我々は、親切にも招き入れていただいたお宅のベランダから、カラコルム・ハイウェイとヒマラヤ連峰を望んだ。お宅の奥さんからはティーを勧められたが、残念ながら時間的に余裕が無かった。

春うらら最長老と同い年 

    杏から桃へ林檎へ花の郷

春愁や地下倉入るは子供のみ

フンザの中心・カリマバード(山頂にレディー・フィンガーの尖鋒がみえる)

険しい道に使われたジープは色彩豊かな          ナガール料理

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