ウガンダとアミン大統領

1971年に、出向が遅れた期間に、事前にタンザニアを見て、ついでにウガンダへ出張して、ラジオ工場をつくるよう社命があった。技術援助ベースで首都のカンパラにあるインド人の経営する会社で、既に建物、従業員の揃っていて、丁度、日本からの電子部品や測定器は着いた直後に訪問したので、二週間ほどの滞在で完成した。インド人技術者もいて、彼等へ引き継ぎをする、そんな契約であった。

日本に帰国して、その六ヶ月後、正式にタンザニアへ出向したわけであるが、その間に、ウガンダではアミン大統領による劇的な政策の変化が起きていた。五万人と言われるインド人を狙ったアジア人の国外退去命令と外資系企業の国有化である。これによりその工場は廃止され、インド人も全く行方知らずになった。

イギリス領であったウガンダには、同じく英領のインド地方から多くの入植者があった。彼らはウガンダが独立しても、英国、インド、パキスタンそしてウガンダのどれか一つのパスポートを選択できたが、当初はそんな選択が後で大きな災いが身に掛かってくるとは全く思わなかっただろう。その国の経済を牛耳る、しかし、表には出ない。そんなアジア人が受けたアミンからの迫害であった。

イディー・アミンは1925年生まれ、ウガンダ・アマチュア・ヘビー級のボクシングチャンピオンにまでなった大男。1971年のクーデターで親タンザニアのオボテ政権を倒した。回教徒で、政権奪取後、ヒットラーを尊敬すると自ら喋り、英国人の担ぐ御輿でパーティーに現れたりするパーフォーマンスが良くて、ウガンダの国民からは強い支持があったかもしれないが、覚めた目での国際的な評価はリビア以外には得られていなかった。

しかしながら、第二次大戦時に英国軍人として、マレー半島で日本と戦った時の印象として、非白人からの共感としてか、アミンは日本軍の勇敢さを褒めるメッセージもあり、日本から会見の訪問者は多く、彼等ジャーナリズムによって、日本へは面白おかしくも伝えられた。昭和天皇へ手紙を送ったり、そして、実現はならなかったが、アントニオ・猪木との異種格闘技が企画されたりしたこともあった。

大きなアミンの失策のひとつに1976年のウガンダの国際空港であるエンテベ空港ハイジャック襲撃事件がある。フランス航空がハイジャックされ、エンテベ空港に着陸した乗客の内、ユダヤ人の人質の解放には、アミン自らがハイジャッカーと同じ立場に立ってしまい、人質処刑をも認めてしまう。イスラエルからの緻密な救出作戦は、ドラマや映画にもなってしまうほど劇的であった。
実は、この作戦を遂行するために、イスラエル軍人がケニヤにも秘密裡に居た。丁度、出張したナイロビのホテルで、いつもと違うただならぬ雰囲気を持った人達を見たが、事件後に得心した次第であった。

また、反対派への弾圧は厳しいもので、アジア人だけでなく、粛清により多くの犠牲者が出た。後に、その残虐さは、本や映画にまで作られて紹介された。

1978年にそのアミンを倒したのは、彼の粛清を恐れ、タンザニア逃れていた人々が結成したUNLF(ウガンダ国民解放戦線)だった。これは、アミンに政権を追われたオボテ前大統領が率いていた。回教徒のアミンはリビア経由サウジアラビアへ亡命。2003年そこで死亡した。

ウガンダのオボデの政権も長く続かず、以降、短命政権による不安定な状況で、国際的に遅れを取り戻すための援助などが滞った。


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