出張の旅<Safari na Kazi>

1971年当時、ウガンダのアミン政権と対峙するタンザニアの国境近くを、ラジオの受信テストのために車で走っていたときに、軍の非常線に引っかかってしまった。ビクトリア湖畔の道で両側に生い茂る葦の中より、突然、数人のカモフラージュ鉄かぶとの兵隊が飛び出してきて、車を止められて、銃を向けられたままの検問を受けた。最初は何のことかわからなかったが、ウガンダへのタンザニア側からのゲリラを送る基地の近くだったらしい。現地人ドライバーは車から降ろされ、そこへ、兵士が乗り込んできた。車の外の兵士の銃口が明らかに自分の額に向いた時には、一瞬、たじろいた。もとより、この紛争に日本人が絡むことは全くなかったので、パスポートで国籍のチェックだけで解放された。コミュニケーションが通じないときのこんな経験は気分の悪いものである。

ところで、現地人2人と私の3人での、この受信テストは、タンザニアで最初に生産する短波ラジオが、放送局のある当時の首都ダルエスサラームから遠く離れている辺境地で自国の放送が受信できるかの性能テストであった。車に試作ラジオを積んで、ビクトリア湖の周辺を、タンザニア第二の町ムワンザから、ウガンダの国境に近いブコバへ地道を走った。前記の軍の非常線に引っ掛かったのはその途中の出来事であったが、それ以外にも、印象が強く残っている。

通常であれば、ムワンザからブコバまで10時間程で移動できるこの道が、前日の雨で、道路に水が溜まって車の移動は難渋した。朝早くから出発したが、道の凹んだ所は泥があるので、どの程度の深さがあるのか見えない。他の車はほとんだ会わない。間違えば、車の腹を擦って思わぬ故障や事故に会うのである。ゆっくりと慎重に進む内に、後から来たバスが追い抜いて行った。腰高のバスはこんな時には良いのだろう。バスの屋根の上には、乗客の荷物が積まれ、いささか不安定である。

彼等が去ってしばらく後に、なんと、そのバスが道を外れて横転している。横転したまま車輪はまだ回転している。乗客が脱出しかけていた。我々も車を路肩に止めて、救助に入った。20人位の乗客だったが、横転車から安全と思われる濡れた草の中に乗客を引っ張り込んだり、柔らかい布や紙で止血をしたり大忙しであった。その間に通過する車もなく、連絡するのも、我々の車しかなかった。乗客の中に乳飲み子が、骨も見える程に、頭を大きく切っていた。

この家族3人と彼らの荷物(家財道具の甕や笊など)を五人乗りの車に乗せて、医療設備のある村(ビハラムロ)へ向かった。ぎゅうぎゅう詰で、事故の現場から3時間以上のドライブではあったが、無事にビハラムロの病院へ着いて医師へ手渡した。両親の涙溢れた謝辞にこっちも感激した。

<その時の事故>


続きはnext>

back
「サファリロッジ」のTOPへ
next

HOMEへ