出張の旅<Safari na Kazi>続き

予定を大幅に遅れ、この日はこのビハラムロに宿をとることにした。日に数台のバスがこの町を通過し、乗り換え地でもあるので、宿も一軒あった。一緒の現地人が気を利かせて、その宿の最上級のゲストルームを選んでくれた。
だが、この6シリング(当時は300円)の宿はベッドはいささか臭いが残り、マラリア蚊予防の蚊帳は真っ黒である。洗面や漱ぎには貴重なために、水は空き缶ひとつだけであった。裏の土間で裸になって、持って来たシャボンと水を頭で少し混ぜて泡立てて、その滴が身体を伝わって落ちて行く場所を洗うと教えてもらう。実際にやってみると、砂埃と汗の身体がまだらに洗えた。

夕食は宿の主人も奥さんも着飾って、食事に参加してくれた。日本人の最初の宿泊で大歓迎。ビクトリア湖の白身の魚を煮込んだフィッシュ・カレーである。ココナツ入りのご飯にかけて、それは結構な味を体験する。インド風に銀色の大皿が配られ、そこへご飯とカレーを取って、右手を使って食うのである。途中で人が来ると手を拭いてから握手するが、少しべたべたする。ここのカレーはそんなに辛い味ではなかった。

ベッドへ入るのも少し気が引けていたので、竹からの蒸留地酒のポンベと現地製のビールで酔った勢いで寝ると決めた。暗くなって、ホンダの発電機の電灯が点り、他の泊り客などのディスコになる。電蓄が回っている。そして、誰もが気さくに話しかけてくる。同行者の英訳によれば、昼間の事故の救済も伝わっており、とても友好的である。そして、壁には何年か前の日本のカレンダーの「若尾文子」が貼られていたのが印象的であった。すっかり気分が良く酔って、かのベッドで熟睡する。

朝日が部屋に漏れ入り、しばらく洗濯などした跡もないシーツや蚊帳から飛び抜けた。

朝飯前に、散歩へ出れば、朝露に濡れて気持ちが爽やかになる。歩くだけでひとりでに深呼吸しているような空気である。バナナ畑で鍬を持った女性が、その鍬を下ろさないで、私の動きを追っている好奇の目が忘れられない。

朝食は湯気の立っているヌードルが出た。日本人の口にも合いそうである。取り皿に少し余計に取って、口に入れた途端にその甘さにびっくりする。なんとバナナと芋を貴重な砂糖で味付けしたらしい。まったく口に合わない。大変に困ったが、謝りながら皿に戻させてもらった。申し訳ない気持ちで、料理していない生のバナナで腹を貯めた。

<宿の玄関で:ビハラムロの宿の主人家族と右二人は私との同行者>

見送られて、ブコバへ向かい、その途中で前述の非常線に掛かる。
ブコバの宿は設備もしっかりしていて、ビクトリア湖畔にあった。

ここでも受信テストをして、カハマ経由でタボラへ抜ける。カハマ手前ではツェーツェー蝿の襲来に遭遇し、そして、部落ではその犠牲者らしき「眠り病」の患者が樹に凭れて死んだように座っていた。

タボラでは、ドイツの殖民地時代(1905年から第一次大戦まで)に入植したままのドイツ人と会う。細々とバーを経営していた。子供の時に両親と一緒にこの地へ入り、そのままに住み着いたと云う。故国は遠いドイツではなく、このタボラだと云っていたが、ドイツ領からイギリス保護領へ、そしてタンカニーカ独立、更に、ザンジバルを併合してタンザニアへ至った、様々な歴史の波にもまれた深い皺の老人だった。

この旅は動物を追う「サファリ」ではないが、ほんとうの意味の旅「サファリ」であった。出会った人たちの顔はいつまでも消えない。


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