3日目(2月4日)‐2
ホテルで遅い朝食を済ます。このホテルはオールドバガン内にあり、1922年に英国のウェールズ公がバガンを訪れた時に建てられたもの。巨木のアカシアが枝を張り巡らした下で、イラワジ川を眺めながらオープンテラスでの朝食を楽しんだ。そして、幾つもの寺を訪ねる行程で、寺院内ではどこも素足をなると云うので、この日からビーチサンダルで巡った。
専用バスでニャンウーの市場見学に出かける。5日に一度しか開催されない市場なので、狭い路地に店と人が溢れ、そこをバイクや自転車が縫うように移動している。市場はその土地の鏡だ。とても太いバナナやカリフラワー、ダチョウの卵、タマリンドの加工品、イラワジ川の魚、お供え用の花、そして、化粧品の「タナカ」。ミャンマーの多くの女性は日焼け止めの「タナカ」を顔に塗る。その原木や摺り下ろす石板が売り物として出ている。だれも市を待っていたように、元気で明るく、そして、微笑みを返してくれる。
市場見物を終えて、気球から眺めた仏塔でも特に有名な寺院を訪ねる。
先ずはバガンを代表する黄金の仏塔を有するシュエズィーゴォン・バヤ寺院(最も神聖)へ向かう。1087年の建造とは思えぬ大きな金色の仏塔が伽藍の中央に聳えている。その周りをいくつもの大小の仏塔が囲むように建てられている。中央の仏塔には仏陀の額骨と歯が収められていると云われ、多くの信者が祈りを捧げている。
アーナンダ寺院(最も優美)へ行く。「アーナンダ寺院に行かずしてバガンに行ったと言うな!」と云われるほどバガン最大の見どころ。黄金に輝く塔を中心に、四方に延びる30mの回廊の中心に高さ9.5mの金の過去四仏は圧巻で、内壁には仏龕が嵌め込まれ釈迦の物語が金のレリーフとなっている。1090年の建造のバガン屈指の寺院だ。
次に1144年に建てられたタビィニュ寺院(最も高い)を訪ねる。バガンで最も高い61mの塔を持つ、寺院の名前は「全知者」を意味する。中には金の仏像が鎮座している。その横の塔頭の様な小さな寺に第二次大戦で亡くなられた日本兵の鎮魂碑がある。お寺の住職にお願いして、線香をあげさせてもらった。
昼食を済ませて、バガンの漆塗り場の見学。竹で編んだ仏具や食器など黒と金を基調にした漆塗りで中々見事な出来栄えだ。顔に「タナカ」を塗って、腰巻のような民族衣装、ロンジーを纏った女性が一心に仕事に励む姿からミャンマー人の勤勉さを見た。
二月と言え、昼間の気温は30℃を越えるので、冷房の効く産品工場などの見学を入れて、配慮の行き届く行程が有り難い。
3時を過ぎて、1059年の建立のマヌーハ寺院(最も窮屈)へ行く。捕虜になったマヌーハ王が許されてこの地に寺を建てたが、鬱積した気持ちが随所に表されている異様だ。三体の座像と一体の寝釈迦像は建物内部の空間いっぱいに造られている。些か、この王の信仰心に疑問を感じる寺院だ。隣のナンパヤー寺院はヒンズー風の石壁のレリーフが見事だ。
バガンで最も大きな1167年に出来たダマヤンヂー寺院を訪ねた。父王と兄王子を暗殺して第五代王位に付いたが、罪の意識にさいなまれ、この寺の建造を命じた。インドの王子の娘をめとったが、その妻も暗殺した。怒ったインドの王子が放った刺客によって、その完成を待たずにこの王も暗殺され、工事は中断した。その後、工事をする人もなく寺院は荒れたままで今に至っている。本尊だけは収まっているが、。壁の窪みにも何も置いていない大きな空疎な寺院だ。
最後に今世紀に建てられたバガン・タワーの13階の屋上からの夕陽を見る。ここは素足にならなくても問題なく、エスカレーターで一気に登る。早朝のバルーンとは別の角度で、夕陽にバガン平原の仏塔が映える。太陽はバガン平原とイラワジ川の先の山並に落ちる。その瞬間を捉えようと、多くの観光客がシャッターを押し続けている。
夕食はミャンマー伝統の操り人形を観ながらバガン料理を楽しむ趣向だ。かつては人形師が多くいたらしいが、ビルマ式社会主義共和国時代(1974年から1988年)に文化や芸術などは弾圧されて、今は文化人や芸能人は少ない状況という。
威風堂々テラスを覆う大樹かな 日焼け止め顔にダチョウの卵売り
シュエズィーゴォン・バヤ寺院の中央塔 老病死を喝破する釈迦像
金色の塔はあまねく春日を返す 茉莉花や祈る女は膝崩す
アーナンダ寺院 と 釈迦の城を出るレリーフ(音がしないように人が馬を担いでいる)
跣とて金の裳裾や過去四仏 釈迦像はどれも微笑みあたたかし
タビィニュ寺院 と 大戦の慰霊碑を守る住職
青葉冷え大戦慰霊碑二か国語 慰霊碑を守る住職の顔ぬくし
漆工房 マヌーハ寺院の窮屈な仏像 バガン最大で荒れたダマヤンヂー寺院
漆掻く一本竹の梯子かな 寝仏の大き春愁や堂狭し 仏塔に千古の干割れ春埃
バガン・タワーからの夕陽 ミャンマー伝統の人形劇
夕涼やパゴダの先にまたパゴダ 跳び飛ばせ汗の操り人形師