首都イスラマバードを抜けて、先ず、世界遺産に登録されている、ガンダーラ最大の仏教遺跡群のあるタキシラへ向かう。ここには三つの都市遺跡が遺っているが、その内で二番目に古く最大規模のシルカップを訪ねた。「この遺跡は紀元前2世紀に造られた」と世界遺産の表示板に記されている。重層的に都市が造られたが、眼前には古代ギリシャ都市の様な区画整理された街跡が広がっている。すなわち、アレキサンドロスの遠征(紀元前327年)もあって、多くのギリシャ兵士がここに残り、或いは植民の子孫たちがこの街を作ったと考えられている。既に、この地に仏教が伝わっており、特に、マウリア朝のアショーカ王(在位:紀元前268年〜232年)は仏教を奨励し沢山のストゥーパ(仏塔)を立てた。タキシラは仏教都市として5世紀にエフタル族の侵入で都市は破壊されるまで栄えた。

 19世紀からの発掘によって少しずつ都市遺構が現れている。碁盤の目の様な街には仏教寺院、ジャイナ教寺院、商店街などの址が残っている。仏教寺院跡に残ったストゥーパの方形の基壇には、コリント式の柱や双頭の鷲が彫られているのが印象的だ。このシルカップのガンダーラ仏教遺跡がギリシャ様式(ヘレニズム文化)で作られているのだ。

シルカップ遺跡を離れて、タキシラ博物館を見学する。ガンダーラの各地の遺跡から発掘された仏像や土製の水差し、壺や玩具人形などの日用品、そして、支配王の顔を彫り込んだコインなどが展示されている。王の顔のコインからは時代の検証に貴重な遺産なのだ。仏像は石仏だけでなく化粧漆喰(ストゥッコ)で作られたもの多い。そして着衣の仏像は殆どが翻波式だ。

2日目(325日)

イスラマバードから朝の8時にS旅行社名が書かれた専用マイクロバスにて出発。車体にはトヨタのエンブレムが付いていたが、車内には何故か中国語の禁煙表示が貼られている。目的地のフンザまではこのバスで2日を要する。全行程を通して、大阪からの添乗員と現地ガイドの日本語堪能なB氏が同行し、そして、卓越したドライバーが、たった一人で運転仕切った。

1日目(324日)

 今回のツアーは12名(男女各6名)が参加との事、東京、大阪、名古屋からそれぞれにバンコクへフライトし、そこで合流して、パキスタンの首都イスラマバードへ入る。時差4時間遅れを入れてイスラマバードのホテルには真夜中の12時過ぎになり、家を出てから約22時間の移動となり、いつもの事ながら、初日は長い一日となる。酒が飲めない回教の国なので、「機内で飲む」と云う、浅はかな考えも、疲れて、乗り継いだ機内ではただ眠るのみ。

北部パキスタン・フンザの郷<2018324日〜41日>

<はじめに>

 インダス川の流域には先住民のインダス人が住んでいたが、紀元前15世紀頃から次第にアーリア人によって侵略され、彼等はカースト制度の最下層・スードラに位置付けられた。ヒンズー教の世界でこのカースト制度はさらに発展したが、この制度を否定するイスラム教の普及により、スードラ階層の人達の多くがイスラム教へ改宗したという。

 1947年に植民地だったイギリス領インド帝国からパキスタンとインドが別々に独立した。カースト制度以外でも、ヒンズー教とイスラム教は考え方が大きく異なるために、共存して一つの国家とはならなかった。ヒンズー教は多神教で、偶像崇拝を行い、牛は神聖な動物で牛肉を食べることは禁止されている。一方、イスラム教は一神教で、偶像も禁止、牛肉は食べるが、豚肉は不浄な動物だとして食べることを禁止されている。相手の信仰を邪教としているのだ。これが分裂した一番の理由だ。

しかしながら、当初は地域によってはヒンズー教徒、イスラム教徒が混在したままであった。こうした状況に対し、相互理解を深めようとしたガンディーは、ヒンズー教過激派から反感を買い暗殺されてしまう。そして、ヒンズー教徒はインドへ、イスラム教徒はパキスタンへ、それぞれ迫害を逃れて移動しようとするが、その間に各地で衝突が起こり、約100万人が亡くなったと言われている。また、カシミール地方の領有権をめぐっての第一次・第二次印パ戦争、更にバングラデッシュの独立に絡んでの第三次印パ戦争で、両国の対立は一層深まった状況になっている。

パキスタンの国土は日本の2倍強、人口は2倍弱、一人当たりのGDPは日本の1/20位だが、対立するインドとのバランスで第7番目の核保有国でもある。軍事費が国家予算の7080%を占めているため、国民生活は貧しい。因みに、原子力発電所は3基ある。

今旅行の目的地である北部パキスタンはインドの領有権でもめているカシミール地方で、紛争地に近い。現地ガイドB氏はその紛争地帯の出身で、今もカシミールに残る友人から、インド軍による虐待が住民になされている等々、情報を得ていると云う。

しかしながら、世界の屋根をつくるヒマラヤ山脈とヒンズー・クシ山脈そしてカラコルム山脈がぶつかるパキスタン北部には、桃源郷と云われる、或いは、長寿の里とも云われる「フンザの郷」がある。杏の花が盛りの頃になると、何年にもわたってS旅行社がツアーを紹介してくれた。また、絵を趣味にして、フンザをこの季節に訪ね、感動した友人たちの話にも触発されて、このツアーに参加した。

アレキサンドロスの駈け抜けし丘苜蓿     花梯梧落ちて明るき博物館

   春光や龕に釈迦牟尼脇佛         ガンダーラ佛らはみなあたたかし

杏咲く長寿の里へ旅支度 

  空港は男ばかりや春半月

シルカップ遺跡↑ コリント式柱と双頭の鷲の彫られたストゥーパの基壇↓

シルカップ遺跡の説明するガイドのB

釈迦誕生の物語↓・菩薩像→
   (タキシラ博物館)

ジョウリアン僧院↑と基壇の仏像

次にジョウリアン僧院址へ行く。タキシラの町を一望できる高さ100m程の丘の上に、ガンダーラの典型的な山岳仏教寺院がある。 僧侶の暮らした僧院区、主ストゥーパ(仏塔)と奉献ストゥーパ、祠堂からなる塔院区があり、ストゥーパの基壇には様々な化粧漆喰(ストゥッコ)の瞑想する僧や仏たちの装飾が美しく残っている。僧院区の壁を外側から見ると、積み重ねられた壁が当時のまま、今も残っている。マウリヤ朝時代、バクトリア時代を通じて栄え、クシャン朝時代には"一大仏教センター"として、各国からの留学僧が仏教、天文学、数学を勉強した。玄奘三蔵もこの地を訪問したと云われる。

ストゥーパは仏陀入滅の際に八つに分けられた遺骨を、更に八万四千にわけて、それを納める仏舎利として建てたので、これを礼拝の対象にした。この時には仏像は未だ作られていなかったが、やがて瞑想する仏などがストゥーパの基壇に施されるようになり、信仰の対象として舎利塔より仏像へ移ったと思える。この僧院でガンダーラ仏教芸術の一端に触れられた。
(鎌倉建長寺にはパキスタンより贈られた釈迦苦行像のコピーが置かれている。その本物はラホール博物館にあり、見る事は無かったが、パキスタンの至宝と云われる)

タキシラを西へ向かえばカイバル峠を越えてアフガニスタンへ通じる。その途中にはノーベル平和賞のマララさんの故郷もあるらしいが、旅程には入っていない。
 我々はタキシラを後にカラコルム・ハイウェイを北上する。途中のアボッターバードはウサーマ・ビン・ラーディンの潜伏先で、アメリカ軍の作戦により殺害された町でもある。しかし、ガイドのB氏は、「あの報道はアメリカのでっち上げで、彼はその前にパキスタン軍による爆撃で死亡していた」そして「アメリカが他国で軍事行動をした事と、それを自分たちの手柄の様に報道した事へパキスタン人は不満を抱いている」と云う。ドライバーがこれに大きく頷いていたのが印象的だった。

 街道沿いでチャパテと辛子風味の肉団子の昼食を摂り、後はひたすら宿泊地のペシャムへ向かう。途中の通り抜ける村々の様子が車窓から眺められて楽しい。この街道を使っている派手に飾り立てたデコトラと称する物流トラックと何度も行き交う。日が落ちてからインダス川に面したパシャムのモーテルに到着した。古い研修所のような宿泊所だが、停電があり、シャワーの湯があやしい。また、部屋に電話が無いために、添乗員の各部屋をモーニング・コールの代わりにノックすると説明があった。(この日の走行距離は280km)

食堂の脇で鍛冶を習う青年と教える長老          砂糖黍から砂糖水の作り売り

煉瓦工場の煙                    橋上の市場

長老らチャイでスマホの日永かな     春暑し手製ふいごで鉄を打つ 

   タンポポや大人と子供の土葬墓      道よぎる雪解水にて洗車かな  

 バザールは髭・鬚・髯や春暑し       春なれや山羊の蹴落とす石崩れ

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