あとがき

 今回の旅は、地域的には狭い範囲ではあったが、中々に充実した旅だった。添乗員も現地ガイドも熟練者で興味深い説明が楽しかった。私にとって、いくつかの印象深い話を記してみる。

@ヨルダンは正式には「ヨルダン・ハシミテ王国」と立憲君主制の国家である。ハシミテ家はムハンマドの家系を継ぐ由緒ある王家。現国王は英国で教育を受けて、開明的な施策で人気は高い。あちらこちらに国王やご家族の写真が飾られている。法律的には一夫多妻とはいかないが、一夫二妻は認められている。しかし、現国王は一夫一妻を守っている。「灼けた炭は二つは持てぬ・・」とか・・

A通貨概念はシュメール文明の紀元前3000年頃の大麦貨幣から来ている。一枡(約1リットル)の大麦を1シラと決めて、これで、物価や労賃の基準とした。すなわち、男の月の労賃は60シラ、女は30シラ、工事監督者や技術者は5000シラだった。

 メソポタミアでは銀8.33gを1シュケルと定めた。ハムラビ法典によれば、「女奴隷を殺めたときは、20シュケルを雇い主へ弁済すべし」とある。イスラエルの通貨単位は「シュケル」。

 ローマ時代の貨幣は皇帝の顔を鋳れ込んだ銀貨だが、銀の含有量の多少で皇帝の顔つきが変わるので、その時代の景気判断が出来る。

Bユダヤ教徒の食事規定「コーシャ(浄められた)」は複雑だ。それぞれに理由があるらしいが、我々が馴染の豚、カニ、イカ、エビは食べない。牛、羊、魚、鶏、鳩、イナゴは許される。
 また、乳製品と牛肉などは一緒に食べない、などきめ細かい規定もある。

Cユダヤ教の聖地、ダビデ王墓や嘆きの壁では男女別々となっている。これは、女性の香油の匂いで惑う男性が神との対話に集中できない、という事で、4世紀頃からそのようになったと言われる。

Dイエスはベツレヘムの馬小屋で生まれたとされるが、当時、馬はこの地に居なかった、家畜小屋と言うべきだ。

E月刊誌「生命の光」の原始福音キリスト教の幕屋については、イスラエルでは<JAPAN>より<MAKUYA>の方が良く知られている。

等々、、、、旅はたのしい!

8〜9日目(4月29日〜30日)

 ペトロ遺跡の町、ワディームーサからデザートハイウェイで真直ぐにヨルダンの首都アンマンへ戻る。帰国便の出発15時まで、「ヨルダン博物館」をさらりと見る。この博物館はJICA援助で2011年に完成したと銘板に記されている。展示物は今まで見てきた遺跡などから発掘されたものが多い。展示ケースにあるものは遺跡現場で見るのに比べて、やはり迫力は大幅に落ちる。イスラエルのクムランで発見された死海文書はここでも保管され、クムランでは禁止だった写真撮影もOKだった。

ヨルダンの首都アンマンはいくつもの丘からなっている。人口は200万人以上で、それらの丘はびっしりと家々が建っている。緑が多い場所には王宮がある。また別の丘には、古代ローマの神殿が建っていた遺跡公園があり、バスはここへも寄り、ここから町を一望した。公園内にはヘラクルス神殿の柱などの遺跡が残って、また、草地に大理石の「ヘラクルスの手」が置かれている。この手は大きさからヘラクルスの全体像は30m程と推測されているが、他の部位は見つかっていない。

今のアンマンの町を俯瞰すれば、大きなヨルダン国旗が見える。その大きさは25mプールより大きく、町のランドマークとなっている。アンマン支局からのテレビ報道ではキャスターは、旗を背にして、この丘に立ちカメラに向かって話すのが定番とガイドが話してくれた。アンマンは紀元前17世紀からの町で、古代にはフィラデルフィアと呼ばれていた。あの米国のフィラデルフィアの語源が古代アンマンの都市名にあったのだ。

そのまま、空港へ向う途中の街中で、大きな顔写真の兵士が一瞬、交差点に見えた。ガイドの話では、ISが虐殺したヨルダンの空軍パイロットで、ISの基地を爆撃中に墜落して捕虜になった。その時を同じく日本人ジャーナリストの二人もISに拘束されていた。ISとの交渉ではこのヨルダン兵と日本のジャーナリストと一緒に釈放を求めるものだった。そして、結果は悲惨にも三人とも殺害された。そんな、因縁のあるパイロットの顔が大きく街の立て看板に見る、まだまだ、このISの危機は厳しい状況だと改めて思った。

帰国もドバイ経由で遅延もなく無事に成田に到着した。

4月の旅の俳句では、季語は晩春を日本で使うが、実感として夏、特に海抜マイナス地ではそう感じた。使う季語は実際に見た花鳥は使える。困ったのは、雨が少ない地域なので、雲や虹は無い。天文では選択できる季語が限られた。そんな中で駄句を並べてみたが、、、、

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死海文書の原本

(閑話休題)

 イスラム教の世界では、23階の家が、更に上へ増築できるように、鉄骨などがむき出しに突き出たままの様子をよく目にする。ヨルダンでもそんな家が多い。大家族で親兄弟が一緒に住むための準備だとされるが、建築資金の考え方が我々と可なり違っている。銀行から借金して、家を完成させて、少しずつ返金するシステムが無い。イスラムでは金利の概念は否定されているので、今ある手元資金で出来る範囲の家を作り、将来、資金が出来たときに増築するらしい。未完成な家には税金も低く、節税対策にもなると云う。

アンマン市内にて

ヘラクルス神殿遺跡公園↑ アンマンの町と大国旗↓

ベドウィンの路売りバナナの味よろし 

 礫漠と化し大地溝帯灼ける 

大砂漠走りし貨車の日焼け屋根 

 銅製の死海文書や夏はじめ 

緑陰を離れぬチャドルのピクニック 

 ISの兵を殺める溽暑かな 

旅終えて聖書取り出す五月かな