以下は現地ガイドの興味深い話。

ユダヤ教徒でも大きく分けて、超正統派と世俗派に分かれる。世俗派は仕事をしているが、超正統派は聖書の研究や祈りにのみ時間を費やしている。彼らには政府より生活保護費として支給される。国民皆兵も免除される。
 最近はこの超正統派の人口が増えて、世俗派の不満が出てきて、トラブルも増えてきた。超正統派の夫婦の営みは排卵日と決まっているので、出生率も高く、所帯当たりの子供数が平均6人、一方、世俗派の子供は23人で財政的な社会負担が大変な状況になっている。

 因みに現地ガイドのご主人は世俗派、ご本人はユダヤ教ではない。そして、「誰でも簡単にはユダヤ教徒になれない。いくつもの宗教的な試験と実行が求められる。ましてや、超正統派へは中々なれない。」との事だ。

次いで訪ねたのが、古代オリエントのなかで最古の町と言われるエリコ(ジェリコ)。

紀元前8000年には既に町の周囲は石の防壁を築いていた。また、世界で最も標高が低い町(海抜マイナス250m)でもある。

今も発掘調査が行われているが、旧約聖書によれば、この町はモーゼを継いだ預言者ヨシュアがイスラエルの人々にラッパを吹かせ、城壁を崩したと伝えられている。「ジェリコの戦い」としてその歌は流布されている。かつて湘南高校の合唱大会でこの歌でわがクラスは優勝した。

 丘のような廃墟からは、今の町が目の前にひろがり、日本ほどではないが、菜畑と椰子や棕櫚の緑がある。ここは死海沿岸で最も豊かな土地と言われる。そして、幾層にも世代を越えて遺跡が重なる様にあることから、考古学者を惹いて止まない。

死海写本が発見された場所↑ 
聖書写本の作業所址と遠くに死海↓

4日目(425日)

この日の最初の観光はエルサレムの神殿の丘。行列に80分も並んで、厳しいセキュリティーを通過して、神殿の丘にある見学域内に入る。この神殿の丘はイスラエル領なのだが、管理はイスラム教徒が行っている。先ずは「エル アクサ モスク」で、ここは8世紀にビザンチンの大聖堂をモスクに改装し、銀のドームとも呼ばれる。ヨルダンのアブダラ一世はこの銀のドームのモスクで暗殺された。

銀のドームの正面には7世紀に完成した金のドームと言われる「岩のドーム」が対を成すように建っている。これら金と銀のモスクはオリーブ山からはっきりと町の象徴の様に眺められた。

「岩のドーム」の名前の由来は、ドーム内に聖なる岩があるからで、預言者ムハンマドが天馬に乗って降り立った、また、一夜にして昇天する旅(ミウラージュ)を体験した場所として、イスラム教徒にとって、メッカとメディナに次ぐ第三の聖地とされている。

同時にユダヤ人とアラブ人の共通の先祖である、アブラハムが息子イサクを神へ捧げようとした台の岩(イサクの燔祭)と信じられている。下って、ダビデ王はこの岩の上に契約の箱を納め、ソロモン王はエルサレム神殿を建てた聖地なのだ。

 内部を見たかったが、イスラム教徒しか入ることが出来ない。外を左回りに回った八角形の堂の壁面は見事なトルコ大理石の幾何学模様で、青空の中に金のドームと相まって美しくも素晴らしかった。

 ソロモン神殿の南壁は考古学公園になっている。
 地上19m、地下21mの2000年前の神殿の西壁と南壁が発掘されている。当時の水場、説教を聴く階段など発掘されていて、そそり立つ石壁と併せて往時の威容を語る。これからも発掘は続いて、いつの日か旧約聖書のダビデ、ソロモン時代の姿を見せてくれるのだろう。

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神殿の丘から下ってソロモン神殿の西壁だった「嘆きの壁」へ向かう。
 
 ここはユダヤ教徒の聖地。男女別々に分かれて壁に近付くことが出来る。男子は着帽が義務付けられているが、無い場合はキッパを無料で貰える。嘆く壁のスペースは男が三分の二ほどで、加えて、左奥の洞窟にも入れる。そこでも、ユダヤ教徒の熱心な祈りがなされていた。洞窟内には図書館の様に本棚があり、旧約聖書がぎっしりと並んでいる。それらを取り出して壁に向かって祈りを唱えている。

それぞれの祈り夏天へ岩ドーム

      女らも嘆く壁あり夏ツバメ

これにて神殿のあるエルサレムの丘から離れ、昼食後はバスにてヨルダン渓谷を下り、死海写本が発見されたクムランへ向かう。ここはパレスチナ自治区内に位置する。入出境は道路に兵士が見えるだけでバスはそのまま通行した。

標高800mの高地エルサレムに比べて、海抜マイナスとなるクムランは一気に真夏の暑さとなる。

ここにはエッセネ派の人々の共同体があった遺構だ。2000年も前に、エッセネ派の修行した教徒がここでヘブライ語の聖書の写本を残す使命を果たすべく、この共同体で作業を続けていた。それを甕に入れて貯めていたものが見つかり、二十世紀最大の考古学的発見とも言われている。
 この解読で、先に記した様に、誤りなき聖書の一貫性が証明され、ユダヤ教徒の信仰の軸になっているのだ。かつては聖書写本の作業所の傍まで死海の湖岸があったというが今は500mほど遠くに霞んでみえる。

エリコ(ジェリコ)の遺構

熱砂より死海写本の壺ずらり

風死すやジェリコの丘は海抜下 

麦秋やキブツの低き赤い屋根

 パレスチナ自治区からイスラエルに戻り、イスラエルの保養地ガリラヤ湖畔のティベリアに宿泊する。
 ここは、ビザンチンやアラブ支配下ではあったが、ユダヤ人の定住が認められて、ヘブライ語の研究が進みここでその体系が完成されたと言われる。
 また、十字軍時代には「ティベリア公国」とも呼ばれていた。

美しい岩のドーム

↑嘆きの壁(右側は女性)↓嘆きの壁、男性側の洞の中

ソロモン城の南壁