再びバスに乗り込み、分離壁を通過してパレスチナ自治区、ベツレヘムの生誕教会(ギリシャ正教)と聖カトリーヌ教会(カトリック生誕教会)へ向かう。観光バスでのパレスチナ自治区への入境は緩いようだ。

イエス生誕教会は改修工事中にも拘わらず、長い行列が出来ていた。40分程その列に付いたが、一向に動く気配がない。添乗員と現地ガイドが決断して列を離れ、隣の聖カトリーヌ教会へ移動した。ここにも大勢の人達が集まっていた。入り口にはヒエロニムスの像が立ち、地下には彼の洞窟がある。ヒエロニムスは4世紀に聖書をラテン語に翻訳した神学者で、彼の翻訳でキリスト教が広まったとされる。

帰路に寄ったパレスチナ側の土産屋でのトイレ休憩時間を利用して、100m程歩いて分離壁を見に行った。ここは、イスラエル側との歩行者専用の出入り口にもなっている。車での出入りは出来ないので、イスラエル領への通勤は壁の手前に駐車して、壁に設えた出入り口を歩いて越える。奥までは入れなかったが、夕方の勤めから帰宅するパレスチナ人が次々と出てくる。出入り口にはちょっとした露店も出来、帰宅者が使うタクシーや小型バスも並んで賑わっていた。

帰りのバスの車窓の横を30人ほどのシュプレヒコールのデモ隊とすれ違った。現地ガイドの話では、イスラエル側に捕らえられたパレスチナ囚人への待遇改善の要求との事。

この日もたっぷりの観光で、早々に食事をして休んだ。

旧市街へは第三次中東戦争(1967年)の激戦地だったライオンの門から入った。門の鉄扉には今も弾痕がいくつも残っている。この戦いで、イスラエルはヨルダン領だったエルサレムとヨルダン川西岸を獲得した。

旧市街を歩き始めてまもなくサイレンが鳴り響いた。この日はホロコースト記念日(ワルシャワ・ゲットーの解放日)にあたり人々は3分間の黙祷をする慣わしがある。町に掲げるイスラエル国旗も半旗で、これは現地ガイドのから事前に訊いていたので、我々も暫し足を止めて黙祷をした。

この後、イエスが十字架を背負って歩いたとされるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を総督ピラトの官邸から刑場であるゴルゴダの丘までを辿る。丁度、ライオン門から聖墳墓教会までの道のりで、途中には14カ所の「留」と呼ばれる中継点があり、都度イエスに関する解説がなされた。イエスの苦痛を推し量るべく多くの巡礼者が進んで行く。讃美歌を歌うグループもいて厳粛な気持ちにさせられる。それに混じって観光客も一緒に歩く。石畳の道幅は4〜5mほどと狭く、石壁に打ち付けられた留の印があるところでは、立ち止まる事も多いので、可なりの混雑となる。

聖墳墓教会はゴルゴダの丘にキリスト教を公認したコンスタンティヌス一世が4世紀に建てたとされる。教会内には、イエスが服を脱がされた階段(第10留)、磔刑柱の窪み(第11留)、埋葬のため塗油された台(第12,13留)、イエスの墓(第14留)もあって、この辺りは様々な国々からの信者で溢れていた。さまざまな肌の人々がこれらの留では跪いて祈りを捧げている。中には涙を流している人もいる。
聖墳墓教会を出て、アルメニア地区でアルメニア風料理の昼食を摂る。ここも多くの団体客で賑わっていた。

次に、モダンな死海写本館を訪ねる。死海沿岸で発見されたヘブライ語聖書の写本が展示されている。イスラエルの、ユダヤ教の律法をイエスの生きた時代に文書として残されたもので、1947年に、後に訪ねるクムランでたまたまベドウィンの少年羊飼いによって発見された。
 その内容は今のヘブライ語聖書(旧約聖書)と100%近く整合性できるものだった事から、ユダヤ教の律法、すなわち、イスラエルにおける精神的な一貫性の強さを示すものとなっている。
 
 この近代的な死海写本館の建物のすぐ横にかつて栄華を極めたエルサレムの町を再現したジオラマが作られている。発掘調査などで新たな発見があれば、その都度、修復を重ね、往時を正確に再現させようとしている。

オリーブ山からその麓のイエスが最後の晩餐を済ませて、祈りを捧げた「ゲッセマネの園」を訪ねる。
20本ほどのオリーブの木が植えられている。イエスの時代からあると云われるオリーブの巨木が今も在る。薔薇や雛罌粟などの草花が植えられ花園として保存されている。
 
 園の脇径を多くの信者が列をなして向かった先には、隣接する万国民の教会で、聖堂内はイエスの壁画が描かれ、彼が祈った岩盤が置かれている。信者でなくても入れるが、丁度、ベトナムの教徒へのミサが行われていた。小振りな聖堂だが、美しくももの悲しく、そして、心が洗われるような、とても神聖な場所だった。

3日目(424日)

ホテルの窓からはエルサレムの官庁街など町の中心が眺められる。近代的な街並みが美しい。
 エルサレムには立法府、総理大臣官邸、最高裁判所などが集中しており、イスラエルの首都としての機能を果たしている。しかしながら、国際連合はエルサレムを首都として認めていないために、各国の大使館はテルアビブに置いている。国内的には首都はエルサレム、対外的には首都はテルアビブと、変則的な状況なのだ。
 早朝7時半にホテル出発。現地ガイドはイスラエルに嫁いで27年になるKさん。
 先ずはエルサレムの旧市街を一望できるオリーブ山からそのパノラマを楽しむ。朝日に映える黄金の岩のドームを中心とした旧市街は城壁に囲まれ、その外側にはイスラム教の墓棺がオリーブ山に向かって置かれている。こちらのオリーブ山側にはユダヤ人の墓棺がそれに相対する様に並んでいる。死んでからも敵対する意識があるらしい。

上からダビデ王墓 
死海写本館 
旧エルサレムのジオラマ(エルサレム神殿の部分)

ヴィア・ドロローサの左上から
留4(悲しむ母マリアと出会う) 
留12(イエスの死、この下に十字架の窪みがある)
留13(塗油の石) 
↑は留10(衣服を剥ぎ取られる)

上は聖カトリーヌ教会とヒエロニムス 
下は分離壁

午後は先ず、第一次中東戦争(1948年)の弾痕の残るシオン門を出て、ダビデ王墓の階上にある最後の晩餐の行われた部屋に入る。中は殺風景だが、サリー姿もある巡礼団が説明を聞き入っていた。ダ・ヴィンチの最後の晩餐の様に椅子に座った晩餐ではなく、当時は寝そべる様に食べていたとの事。いずれにせよ、部屋はビザンチン時代の教会を経て、ファティーマ朝などのイスラム時代はモスクにもなっているので、様々な時代を反映している。

最後の晩餐の部屋の下には、古代ヘブライ王国の二代目の王であるダビデ王墓がある。ダビデはミケランジェロの作品でも有名で、ペリシテ人の侵略からヘブライ王国を守った英雄である。石棺はヘブライ文字と文様が刺繍されたビロード布に覆われている。しかし、今から3000年も前の王の墓がこんな場所にあり、しかも石棺がビロードで覆われて現在も残されているなど、些か不可解なのだが、ユダヤ教徒にとっては大切な聖地の一つである。慣習なのか、男女の入口は異なり、中ではユダヤ教の服を纏ったラビ(?)が聖書を読んでいる。聖書の言葉が書かれている小さな羊皮紙の巻物をケースに納めるメズーサを伝統的にユダヤ人は家の戸口に取り付ける。このダビデ王墓の入口にも立派なメズーサが付いていた。

相対の墓地は異教徒日の盛り     オリーブの花やイエスの祈り岩 

   喉乾く初夏やイエスの嘆き道      行く春や磔刑柱の穴へ列 

夾竹桃今日は半旗のエルサレム    窟涼し燭光ほのとミサ準備 

   十字切り聖堂内へ花蜜柑        ゴルゴダの丘へ斑猫桂馬跳び

茨線の這う壁つづく旱空       パレスチナ自治区トマトの輪切りかな
          

ゲッセマネの園(中央が樹齢2000年
       を越えるオリーブの樹)

オリーブ山からエルサレム旧市街を望む

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