<はじめに>
我々の世代が生きてきたこの半世紀は中近東がもっとも激しく変化した地域のひとつだと思う。そのひとつの要因は国家イスラエルの建国であり、いまひとつはオイルマネーによるこの地域内の経済格差ではないだろうか?そして、今もその問題解決には至っていない。かえって、動きが激しさを増しているように思える。
イスラム教のアラブの国々に囲まれたイスラエルと、石油に恵まれない隣国ヨルダンの遺跡を巡るツアーを見つけ参加した。この二国は1967年の第三次中東戦争で戦って、イスラエルが勝利して、エルサレムとヨルダン川西岸の地域をヨルダンから獲得した。この戦争前ならば、ヨルダン観光だけで事は足りたのかも知れない。因みに正式な国家名はイスラエル国とヨルダン・ハシミテ王国である。限られた日程で、遺跡観光が主な目的だが、パレスチナ自治区の様子も垣間見えて充実した旅だった。
ジェラシュの丘にて
1~2日目(4月22~23日)
成田発のエティハド航空でアラブ首長国連邦アブダビ首長国の首都アブダビに深夜の入国、ホテルにて10時間ほど過ごし、同じくエティハド航空機でヨルダン王国の首都アンマンへ向かう。
機内はアラブ首長国の国営航空だけあって、モニター画面には常にメッカへの方向と距離、更に、祈祷までの時間が表記されている。機内は最新のWi‐fiに対応されていた。
昼過ぎにヨルダン入国し、そのままバスでローマ時代に隊商都市として栄えたジェラシュ遺跡に向かう。途中、旧約聖書に記されているヤボク川を渡る。ここで父祖アブラハムの孫ヤコブが天使と格闘し、ヤコブが勝った。その時に「イスラエル(神が守る人)」と名のるがよい、と神からの祝福があったと記されている。何でもない川ではあるが、聖書的に意味深い土地をいきなり通過した。
ジェラシュ観光を終えて、キング・フセイン橋よりヨルダンを出国してアレンビー橋よりイスラエルに入国する。この翌日がモハメッドの4代目の正統カリフ・アリーの誕生日とかで多くの巡礼者バスのイスラエルへの国境通過があり、長い時間をバスで待つハプニングがあった。この為にホテルに到着したのが10時半を過ぎていた。
イスラム教徒への入国は厳しく時間も掛かるとかで、添乗員と現地ガイドがイスラエル入国管理と交渉して、特別に日本人観光客を早める交渉もあった様だ。
イスラエルで入国スタンプを旅券に捺印されると、この旅券でイランなどには入国できない。別紙に入国証明を発行してもらい、それを出国時やパレスチナ自治区への出入りの際に求められたら示す。そんな通常とは異なる入国もイスラエルの特殊な立場なのだろう。
エルサレムとペトラ遺跡<2017年4月22日~4月30日)
雛罌粟やかつて戦車の競技場
栴檀の花やアゴラの石畳
百足らの惑うゼウスの大神殿
地バナナを勧めて配る髭ガイド
サボテンの花や検問兵士の眼
ハドリアヌス帝の凱旋門
カルドス(南北のメイン道路)↑ と ローマ劇場から見たジェラシュの遺跡↓
アルテミス神殿
ジェラシュはギリシャ・ローマ時代のデカポリス(十都市連合)のリーダー格で当時はゲラサと呼ばれていた都市遺跡だ。特にローマ時代には平和が保たれたことにより、経済活動や公共施設の建設に力を入れる事ができた。東西南北に石の街道が町を貫き、交易で中心的な役割を果たし、町は発達した。最盛期にはその規模は80万m²にもなった。
ハドリアヌス帝が視察した町には事前に凱旋門が建てられて、帝は大いに気を良くして、町への減税でお返し、更に繁栄したとの事。その凱旋門から町に入り、戦車競技場、ゼウス神殿、町の南北に造られた二つのローマ劇場、アルテミス神殿など往時の遺跡を廻った。ローマ街道は石畳や給水場がそのまま遺構として残り、これまで見たイタリアのフォノ・ローマやトルコのエフェスの遺跡に比べても決して遜色がない。特に列柱で囲まれた街道とオーバル状の広場は当時の町の活動の息吹を感じられるほどだ。ローマがキリスト教を認めた後の教会もある。
ヨルダン政府は首都アンマンに近い貴重な観光資源として保存に力を入れている。世界遺産には登録されていないのは復元作業に手違いがあったようだが、人を惹きつける魅力は十分だ。