3日目(108日)−2

昼食後、11〜13世紀にシンハラ王朝の首都であったポロンナルワへ向かう。当時は仏教都市として大いに栄え、海外からも多くの学僧たちが訪れていた。特に都の灌漑設備は同時代の他の文明に比べても非常に進んでいたそうで、その2400ヘクタールの貯水池で7500ヘクタールの水田を灌漑できたと云う。今年は旱が続いて水の量は少なかったが、王朝の賢明さが窺える。ボロンナルワは1982年世界文化遺産に登録された。

しかし、南インドのタミル族から常に侵略の危険にさらされているいた為、王朝はダンバデニヤへ遷都したため、長い間この都は廃墟と化していた。廃墟が発見されたのは19世紀のことで、同世紀半ばからこの町に活気が蘇った。往時のボロンナルワの栄華を残す大遺跡群が残っている。

多くの遺跡群から、その中心となるクワドラングルを観光する。城壁に囲まれた方形の庭に11の建造物が集まっている。シンハラ王朝時代に仏歯寺があった場所で、ポロンナルワの仏教の中心地であった。

最初に靴を脱いで入った仏堂(トゥーパラーマ)には7世紀に作られた翻波式衣文の石仏立象二体が侍る様に横壁に立っている。この堂は煉瓦造りで、丸天井とアーチが使われている。その厚い壁に開けられた小さな穴から、朝夕に太陽光線が入り仏像の顔を照らす。この仏堂だけは丸天井が残っている。

他の建造物には屋根は残っていない。そんな中で最も目を引くのが丸い壁で囲まれたワタダーゲ、「円柱の宝の家」と呼ばれる僧院。中央の仏塔には4体の仏座像が外向きに置かれている。いずれも全体的に損傷が激しい。ここには木造の屋根があったはずだが、今は煉瓦と石造りの柱しかない。

他の9つの建造物も木造部分は朽ち果てて、今は石の部分しか残っていないが、その支柱の大きさや数から、木造部分は数階建ての建物だったと推測される。

「石の本」とも呼ばれるガタルポは長さ8m、幅4.25m、厚さ45cmのポロンナルワの周辺国との関係やここを築いたニッサンカ・マーラ王への称賛の言葉が彫られている。また、タイ様式の7階建ての塔もあり、この地が当時は国際的にも繁栄を極めていた証なのだ。

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晩涼や椰子の葉葺きの喫茶店           我が腕に軽き裸児はやピアス

         
            納屋奥の天蓋蚊帳へ赤子這う

<訪問した民家(交渉するガイドと添乗員)と抱かせてもらった女の子>

山肌にうすもの美しき石の釈迦               緑陰へ猿ら仏を遠ざかる

<ガル・ヴィハーラの御影石の仏たち(上の二枚は案内書より転載)>

風青し石柱のみの大伽藍         


      丸屋根を失せし僧院夏の空         



   炎天や石碑に丸き掠れ文字   


          寺壁に寺のレリーフ走馬燈

<←仏堂外壁(トゥーパラーマ)のレリーフ>

<ガタルポ(石の本)↑>

次に一つの花崗岩の山から直接に彫り込んだ4体の石仏が並ぶガル・ヴィハーラを訪問する。花崗岩の紋が像全体に波の様に流れている。涅槃像は15mもあり、その優美な姿からは静かな雰囲気が表現されている。因みに、涅槃釈迦と寝釈迦は違うとのこと。「両足を揃えて、固い枕が寝釈迦仏。右足の親指を前にして、凹んだ枕で横になっているのが涅槃の姿だ」とガイドから教わった。

 岩山には当時の仏教集会の記録が碑文として残されている。仏教集会を経済的に支えていた王は、話し合いが合意に至るまで会議室から出ないように僧たちに命じていた。また、石の壁龕の中ではヒンズー教の神々に囲まれている釈迦座像がある。

暑かったクワドラングルとガル・ヴィハーラの見学を終えて、灌漑池近くの農家のお宅を訪問する。若夫婦と赤子の3人が住む椰子の葉で葺いた家で、厳しい生活の様にも見えるが、明るく清潔感のある家庭だ。こんなところに人が来るかと思う場所に茶房を開こうと鋭意準備中の様子で電気を引いて冷蔵庫やステレオセットも置いてあった。お茶を頂きながら、抱かせてもらった生後8ヶ月女の子はピアスなどを耳に付けていた。スリランカの一般家庭を訪問する趣向が楽しい。

宿はシギリアのロッジで2連泊が良い。

<ボロンナルワの遺跡の一部と丸いワタダーゲ(石の本)の半月板の入口>