二日目

かって百済の最後の都であった扶余(プヨ)へ向かう。新羅に滅ぼされた際、建造物は徹底的に破壊され、この地に残されたものはわずかな出土品だけ・・

百済からの要請で日本軍がここへ着いたのは、滅亡して3年後で、その時(663年)の新羅と「白村江の戦い」である。李さんの説明で日本の古代史が蘇る。

日本への大陸からの帰化人はこの百済からが多い。ここから帰化した蘇我氏の祖先から皇室の外戚となった馬子や入鹿の時代、すなわち、推古天皇、聖徳太子、天智天皇時代から今の皇室に至るまで、百済の血がある。余り知られていないが、皇室ではいまでも、食事の際に箸と匙を使うとか、これは、韓国の作法と同じらしい。
以上もバスでのガイドの李さんの説明である。

山へ遊歩道があり、そこで往時を想う事がこの訪問目的。

白村江こと白馬江を眼下に見る四阿の百花亭まで歩く。

ここは新羅の追撃を逃れた百済の女官達が川に身を投げて果てた。その様子を遠くからみて花々が落ちてゆくようだったことから、この絶壁には落花岩と名付けられている。

さらに船着場までくだり、この白馬江の舟下りを楽しむ。約15分ほどだったが落花岩を下から眺める。

晴れわたる百済の路や木の芽風

女官らの逃げし余寒の坂辿る

水温し百済はここに果にけり

料峭や百済亡びるなにもかも

<扶余山城のサビムン門>

<百花亭↑>

<香蘭寺の外壁図↓>

そのまま、崖の階段で下れば香蘭寺へ着く。

その外壁には、仏典を求めて、日本から来た二人の女性図や、この落花岩の悲劇の絵などが描かれている。また、往時の百済王も使ったとされる、飲めば若返る湧き水などもある。


昼食後、世界遺産の八萬大蔵経を納めた海印寺へ150キロほどを移動する。

総81258枚、横69.6cm、縦24cm、厚さは1.6〜3.9cmの木板1枚毎に23行を刻み、各行毎に14字ずつ刻まれている。使われた木材は南海と巨済島産の白樺の木で、切って海に数年後つけ、取り上げて乾かして文字を刻んだものである。この全てが朝鮮太祖の時、ソウル付近の江華島の禅源寺から、通風のよいこの建物に移された。撮影禁止だが、図書館のようにこれらが納められている様子は壮観である。

この日は韓国第三の都市、大邱(テグ)泊。夕食後、レストラン横の青果卸市場に入って、店じまい間際の苺を小売してもらう。そんな交渉も楽しい。苺を減らして売り子のおばさん用のみかんを三個つけてもらった。苺の味はとても良かった。

大邱は盆地、夏は最も暑く、りんごの産地、美人も産地、大統領もここの出身が多いとか・・金大中以外はほとんどここの出身らしい・・李さんの説明。

802年に創建された華厳宗の名刹だが、何度かの火災に遭っており、現在の建物は19世紀に建立された。この寺の本堂の奥に、この大蔵経の経板を納めた建物がある。これは高麗が元の侵略から国を守るために16年かけて作成した。

宿り木の芽吹く参道風さわぐ

霾や経板守る閣高し

春陰や極彩色の雲肘木

<海印寺三門>

<大蔵経板閣↑>

<色彩鮮やかな屋根>

<木魚と釣鐘↓>

着いた所は百済の王宮があったとされる扶蘇山城。今は当時の物は何ものこっていない。

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