3日目(3月23日)

イースター島の歴史を整理してみる。

510世紀の間に、人が初めて筏の様な船で2000キロ以上の航海を経てこの無人島に着いた。併せて、家畜や農作物、そして、独自の文化を持ち込んだ。彼らは、言語や骨格、更に遺伝子などから、マルケサス諸島とも云われているが、隔絶した孤島に次々と人が渡ったわけではない。
最初に来たのは何人だったか?家畜や農作物など何を生きるために運んだのか?ただ、この時点では、島には椰子の樹が茂っていたようだ。
更に、このポリネシア人の先祖は、インカの末裔か、押し出された高砂族か、その混血か?

黎明の爽気草食む親子馬      伝承の失せし孤島や地虫鳴く 


   秋声を聴くか孤島の崩れ像       懸崖の底は火口湖秋の空 


飛行するアジサシ白さ際だてり    身に入むや最果て島へ奴隷狩り

2015年に発行された野村哲也氏の「イースター島を行くーモアイの謎と未踏の聖地」が、かつての伝統と誇りを取り戻そうと催行された島の祭典「タパティ祭」を詳しく写真入りでレポートされている。二週間にわたる祭で「鳥人の儀式」など様々なプログラムが組まれて、今の島人の心意気を感じる。

島にはマタベリ国際空港が、島の規模には不釣り合いな3300mの滑走路を持っている。これはNASAのスペースシャトルの緊急着陸地の一つとして整備されたが、一度もその目的で使われたことは無い。

1995年、ユネスコの世界遺産に認定され、経済が飛躍的に伸び、チリにとっての重要な観光資源になっている。行政はラパ・ヌイ人に占められ、チリ政府所有地も徐々に島民へ戻されている。

島にはロンゴロンゴ(ラパ・ヌイ語)と呼ばれる絵文字があり、板や石に書かれ木材に刻まれたものが多数あったと云う。過度な伐採によりこれら文字の残した木々は燃料や釣り具となり、また、文化人の極端な減少から、この文字を解読することは出来ていない。今は、ヨーロッパ人が残した記録でしか島の記録を知る術は無い。

1862年には、奴隷商人に騙されて誘拐され、多くの島民がスペインの植民地政策からなるペルー副王領へ連れ出された。その中には島の王族やロンゴロンゴの木版を読み書きできる文化人も含まれていた。

その理不尽なやり方を見かねたタヒチの司教がペルー政府に働きかけ、生き残っていた100人が島へ戻る事になったが、その途上に天然病で多くが死亡、更に、戻った人たちが持ち込んだこの疫病の猛威で人口は激減し、1872年当時の島民はわずか111名と、絶滅寸前にまで追い込まれる。

また、少し、歴史的な事項を記す。

増えた島内人口から限られた食糧を取り合う部族間の戦争が続き、敵のモアイは次々と倒され、霊力を持つと云われる目玉を剥がされた。このフリ・モアイ(モアイ倒し戦争)から島の歴史は更に凄惨なものになる。

次のアフ・ビナブへ行くと、そこにはペルー・インカ遺跡に見られる精巧な石組を持つアフ(祭壇)がある。ノルウェーの冒険家トール・ヘイエルダール著の「コンキチ号漂流記」に語られている様に、インカ時代の南米からの移民説の裏付けとも考えられる。彼は実際に筏を組んで南米からの航海を試みて成功している。

モアイの顔つきにも様々なものが見られるのは、西からも東からも民族が入った事なのだろうか?

別のアフ(祭壇)にの脇には赤い凝灰岩の珍しい女性モアイ像が見られる。微かに乳房を示す曲線が彫られている。女性の権力者もいたのだろうか?

最後はオロンゴ遺跡へ向かう。ここは17世紀のフリモアイ(モアイ倒し)戦争以降、島の統治者を決めるために行われた「鳥人の儀式」の舞台となった。
復元された「鳥人の村の石積み式の家」は泊まったホテルがモチーフとした原型だ。ホテルでは南チリからの木材を柱にしていたが、元々はそんな物は無い。ここは休火山ラノカウの直径1500mの火口縁にあり、オロンゴ遺跡を歩くトレイルの両側は火口と海に落ちる高さ300mの断崖に挟まれ風がとても強い。どちらも覗き込むと足が竦む。こんな所に住んでいたのだ。

海側の断崖の先の3つの礁にはアジサシが巣を作る。その卵を各部族の代表が競って取りに行く。急峻な崖を下り、サメの多い海を泳ぎ、卵を割らないように再び崖を上る、命がけの戦いだった。その勝者の部族長が島全体の統治者になる。

アフ・ビナブに転がるプカオ(飾り髪)

一旦ホテルに戻り、自由時間を使って、近くの海岸沿いの道を散策する。キャンプ場を守るモアイ像、海岸路の傍にも小振りなモアイ像が置かれている。
古いのも新しいモアイもありそうだ。日本のお地蔵さんの様だ

昼食後、島の内陸にあるアフアキビのモアイ像を見る。
ここは1960年に木やロープなど古典的な道具を使って初めて修復されたアフ(祭壇)。

伝説によれば、5世紀に初めて島人の祖先が訪れ、その先達となったホツマアツア王の7人の息子を祀ってあるアフ(祭壇)と云われており、太平洋の西側、つまり、ホツマツア王の来た方伝説のヒヴァの国を向いていると云われる。この7体のモアイだけが西の海を見つめている。
イースター島へは台湾の高砂族が中国大陸からの民に押し出されるように太平洋へ出て、この島にまで至ったと云うのが最も有力な説らしい。このモアイの向きはその事なのかも知れない。

アフアキビのモアイは西の海を眺めている

アフ・トンガリキの村に寝るモアイ

ラノ・ララクの山へ朝日が当たる

夜明けとアフ・トンガリキの15体のモアイ

1017世紀には、ポリネシア独自の「マナ」(豊穣への霊力)への信仰から、部族長を崇め、やがて、部族長の死後には石像をラノ・ララクから切り出し集落を見渡せる祭壇に立て、集落の守り神にした。これが、モアイの始まりだが、その石像移動などに、多くの椰子の樹を切り倒してしまった。そのため豊かな土壌は海に流れてしまい、島の木々や作物は育たなくなり、一万近くにも膨れた人口の増加に食糧が立ち行かなくなった。

この島の今一つの環境破壊の理由は、最初の移民船で紛れ込んだネズミが、天敵の無いために、大繁盛して、椰子の樹や実を喰い尽したと云う説もある。ネズミの齧り跡がほぼ全ての椰子の実の化石から発見されている。

いずれにしても、やがて食糧を取り合う部族間闘争が始まり、敵の霊力の象徴たるモアイの破壊と、更には人食いにまでに至る深刻な時代があった。

オロンゴ遺跡を最後に空港へ向かい、パスポートを返却され、タヒチに向かう20時発のチャーター便に乗り込んだ。
ほぼ真西に向かう6時間の飛行時間で、タヒチの首都パペーテには時差の関係で21時に到着し、そのままホテルに直行した。

懸崖に低き丸屋根穂草のせ

1888年にチリ領になる。これはフランスの進出を牽制するための英国の策で、その後の1953年まで50年近く、英国系の羊毛会社に島を貸与した。その間に1937年にチリの軍艦建造の財源捻出が目的で、売却が検討されて、米英と日本へ打診があった。日本は漁業基地として有用性を考えたが、アメリカとの関係を配慮して静観した。

インカ遺跡に似たアフ・ビナブの石組↑

アフ・ビナブ:女性のモアイ?↓

アジサシの巣を作る礁(一番奥)↑と卵を持った勇者の図→

鳥人の村の石積み式の家↑と火山ラノカウの直径1500mの火口↓

アフ・トンガリキ:離れたモアイ一体

ラノ・ララクから運ばれる途中のモアイが仰向け置かれている。
チリ津波で移動したのだろうが、モアイの守る村の真ん中に仰向けに堂々と寝ているのが面白い。
観光客はカメラを持って光線とモアイのアングルを考えてあちらこちらで撮りまくっている。

さて、日の出のモアイを見るために、島の東海岸のアフ・トンガリキへ行く。

朝焼けの空をバックに15体のモアイのシルエットが幻想的だ。明るさを増すにつれて、モアイの表情が少しずつ見えてくる。
彼らの正面には護っている村があり、その先には、モアイを掘り出したラノ・ララクの山が太陽を正面に受けて、厳しい凝灰岩の岩肌を露出し始める。
麓には放たれた馬たちがはや草を食んでいる。

先に記載したが、1722年のイースター(復活祭)の日にオランダ人のヤコブ・ロッゲフェーンがこの島に上陸した時には1000体のモアイが立っていて、その前で火を焚き、頭を地に付けて祈る島人がいた。

その50年後の1774年に英国人のジェームス・クックが上陸した時には、倒されたモアイもあったが、500体ほどは起立していた。そして、山肌には作りかけのモアイの石像が、あたかも、急に作業を止めてしまった様に放置されてたままだった。

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