4日目(324日)

北端のハワイ、南西のニュージーランドと西端のイースター島の3点を結んでできる三角形をポリネシア・トライアングルと称し、一つのポリネシア文化圏となっている。この文化圏はミクロネシアやメラネシアの島々にも点在し、その広さ、遠さはユーラシア大陸にも匹敵する。その中央にタヒチ島が位置している。

途中の経由地のタヒチでは丸1日の自由行動だったが、空いていた半日観光に申し込んでタヒチ島を一周した。

おわりに

今回のイースター島の旅から、文明の崩壊の縮図がこの孤島に見る事が出来る。穀物の育ちにくい痩せた土壌ではあったが、島民は単純な鶏とサツマイモを主食とした食文化を築き、余った時間を宗教的祭祀に当て、モアイを作り、祭壇(アフ)へ運び、宗教的儀式を行い、それらが、人々の生活の大きな部分を占めてきた。外敵の脅威が無く、人口は増えて1600年代には10000人に達し、17世紀後半にはたびたび深刻な食糧危機に遭遇したと思われる。

祭祀の過熱でモアイ像は巨大化し、また製造数は増え続け、延々とそれを運ぶに必要な丸太のコロを作るために大木を切り倒した。また、人口増加により、薪や建材による木材消費も増えて、抗争の頃にはほとんど森は枯渇してしまった。その結果、肥えた土壌が海に流出し、土地は益々痩せ衰え、更に深刻な食糧危機に陥った。

耕作地や漁場をめぐって食糧争奪の部族抗争が頻発、果ては食人にまで及んだ。その証拠はこの時代の地層から多くの武器やバラバラに砕かれた人骨が発掘されている。

モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたために、相手の部族攻撃では、守り神のモアイ像をうつ伏せに倒し、目を粉々に破壊した。森林伐採は家屋やカヌーなどの製作も不可能として、最初にヨーロッパ人、ロッゲフェーンが入った時には、島民の生活は石器時代の様だった。

イースター島の悲劇は限られた資源と環境でありながら、極端な偶像崇拝の祭祀を競争して推し進めた点にある。資源を食いつぶしたのだ。孤島のために、他の文明のようにその周辺に資源を求めて広がることが出来なかった。

無計画な開発と環境破壊を続けたイースター島の歴史は、これからの地球文明への警鐘としている。

写真は上から
イースター島のアフ(祭壇)に似た霊場
霊場入口に置かれた木像
素晴らしい海水浴場

下はタヒチアンダンスの楽団

万緑やパンの樹タコの樹マンゴの樹     ゴーギャンの往還の山滴りぬ 



髪洗うタヒチの白き花あらば        産神のタトゥ躍るや夏の月

海岸線に沿ってバスは半時計方向に回遊した。イースター島に比べるとはるかに賑やかな首都タペーテの市街を抜ける。最初にタヒチ島の博物館を見学し、歴史や伝統文化などの展示みながら説明を受ける。

信仰の対象の遺跡ではモアイの様な木彫の像も立つ宗教儀式の場が復元されている。海岸線に迫る峻厳な山々とそこに落ちる滝がいくつも霧の合い間に見えた。生物では、野生の鶏、食べてはならない神聖なウナギなどが見られ豊かな自然を感じる。ゴーギャン記念館は工事中で休館だったが、椰子の実汁を飲んだりして結構楽しんだ。ただ、乗っていたバスが居眠り運転の対向車に側面衝突して、乗客に数名が軽傷を負った。相手の居眠りをしていた運転手も手に大怪我をしていた。

夜はタヒチアンダンス付き夕食を楽しむ。入墨を施した男女の激しい踊りに魅入った。求められて一緒に踊ったが、些かばてた。

タヒチに到着した時から、蒸し暑さに圧倒される。島全体が生い茂る木々に覆われ、南国の花々が咲いている。高温多湿なのだ。

フランス領ポリネシアに所属し、イースター島の6倍ほどの面積がある島だが、火山性の山がちな島だ。近くに映画「南太平洋」で有名になったモーレア島やブルー・ラグーンに囲まれたボラボラ島もあるが、半日観光としては瓢箪の形をしたタヒチ島の大きな部分(タヒチ・ヌイ)だけを回るのが精一杯だ。ハワイに似て、ハネムーンには素晴らしい雰囲気で、そんな日本からの新婚夫婦も見られた。

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