<第3日目:1月24日(土)>−1

 次いで、近くのハトシェプスト女王(没BC1458年)の葬祭殿へバス移動する。この神殿は二階建ての造りになっている。
 彼女の夫のトトメス二世(没1504年)の死後、トトメス三世(没BC1450年)の摂政となり、やがて、自らもファラオになってしまった。ここのレリーフには色が残っているところも多く、見ごたえがあった。
 神殿の前には彼女の像が並んで立っている。何れも王の威厳を示す鬚を付けているのが興味深い。

 ナイル川の流域に住んだ古代エジプト人は、太陽が東から昇って西に沈む姿を人生にたとえて、現世は東側、西側は死後の世界として、墓や葬祭殿などを多く建設した。この日はそのナイル川西岸の観光。

 新王国時代の王の墓が集中するこの「王家の谷」には24の王墓と64の墓が発見されている。
 それ以前に多かった盗掘を避けるために、トトメス1世(没BC1518年)が自分の墓のありかを隠す目的でこの谷に初めて岩窟墓が造られた。長い歴史の中では、この「王家の谷」の墓も盗掘を受けたが、1922年に発掘されたツタンカーメンの墓は唯一の未盗掘で、副葬品が完全な形で発見された。
 今、その財宝はカイロ考古学博物館に収蔵展示されている。

麦を刈る墓の壁絵のように刈る

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風炎える王家の谷へ列長し       王墓入りたちまち外すサングラス   



  立像は鬚の女王汗もなし         旱天や三千年の色しかと

 その他の王墓へも入ったが、この日はエジプト人の休みと重なり、見学の後半は人でごったがえすような状況になった。印象も余り残っていない。

 ホテルから30分ほどバスに乗り、ナイル川を渡り西岸に入る。流域から少し離れると草木の全く無い砂山が広がり、発掘を進めている現場が所々に遠望される。多くの墓がこれらの砂の中にまだまだ埋まっているのだ。

 先ず「王家の谷」に入る。ここではカメラの持ち込みは禁止されている。早朝なのに砂漠地帯の直射日光が強い。

<カメラの持ち込みは禁止の為に王家の谷での自分の撮った写真は無い。代わりに絵葉書を買った。これに、CDがおまけの様に入っていた。帰宅後、PCで開けた所、実に1000枚に近い画像があった。>

セティ一世の玄室内部(絵葉書より)

王家の谷へはこのトロッコで入る(絵葉書より)

↑はハトシェプスト葬祭殿、女王の立像と色鮮やかな壁画

 また、この神殿では1997年の過激派ゲリラによる観光客への無差別殺傷事件があり、日本人10人を含む観光客61名と警察官2名が死亡、85名が負傷した現場でもある。

 我々は「セティ1世の墓」「ラムセス6世(没BC1133年)の墓」そして「ツタンカーメン(没BC1325年)の墓」に入った。
 最初に入った「セティ1世(没BC1279年)の墓」の内部は、特に印象的だった。
 四面の壁には「死者の書」に書かれている神の舟で冥界へ向かう王と従者、それを、迎える神々が画かれ、天井も星座図が表現されている。
 玄室の側室にも壁画が残り多くの人物が三段に描かれている。往時のファラオの権勢と死後の冥界への信仰の一端に触れる事ができた。

 ほとんどの岩窟墓は狭い通路を下り玄室に入る造りとなっている。玄室や通路の壁面には王の霊魂が肉体を離れて永遠の冥界へ入るまでの、いわゆる「死者の書」が画かれている。