7月25日(4日目):湖水地方→ストラッドフォード・アポン・エイボン

この日の最初の旅程は、『嵐が丘』の作者、ブロンテ姉妹ゆかりのハワースへ行く。ここは季節の花で飾られた石の町で、かなり急な勾配の石畳を上る。石畳の切れる所に、彼女らの眠る教会が静かに立っている。更に裏の墓地や牧場の先に、ヒースの丘が荒涼とした姿を見せる。『嵐が丘』を生んだのはこの風景なのだ。時間を掛けてのトレッキングが良いらしいが、パックされたツアーでは叶わない。

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』、中央奥がヒース

この日の宿は、名門貴族シェリー家の城を改装したネオ・ゴチック建築のマナーハウス(荘園主の館)。16万m²に広大な庭園と牧場を有し、贅沢な貴族生活の中を垣間見る事ができる、今回のツアー商品の目玉的な宿だ。

征服王ウィリアム一世が1086年に編纂したイングランドの土地調査記録にシェリー家の土地所有が記載されている。以降、このシェリー家は男系世襲で今日まで引き継がれている。この土地でローマ時代のコインも発見されていて、2000年以上の前から人が住んでいたとされる。

 外観は古い館をそのまま使ってはいるが、設備は最新で快適な一泊だった。城内の図書館が食堂に当てられ、本に囲まれた中での食事だ。ここの味だけは良かった。

宿泊したマナー・ハウス

峰雲の底掻き回す風力扇

シェイクスピアの生家

シェイクスピアの生家は漆喰と木組みが今でも美しく、そして、大きな家構えでもある。
 ここで父は皮手袋商人で成功し、町長にもなった。母も支配階級の娘で、裕福な家庭環境が育まれていた。シェイクスピアはこの町でラテン語やラテン演劇を学んだ。16世紀末にロンドンの演劇界に入り、劇作家としてだけではなく、俳優としても多くの作品に参加した。
 彼の作品は古今東西を問わず最も優れた文学作品と評価され、世界中に訳され、また、芝居が上演されている。 家の中には当時の皮手袋の作業場や赤ん坊のシェイクスピアが使った小さなベッドなどが再現されている。米国勤務時代に集めた小さな陶器製のシェイクスピアの家やチューダー朝の藁葺屋根の本物を正に目の当りに観た。

チューダー朝からの茅葺屋根の家

 最初にシェイクスピアの妻、アン・ハザウェイが結婚前に育った家を訪ねた。チューダー朝の建築を代表する大きな茅葺の農家は、季節の花に囲まれて、美しい佇まいだ。
 家屋の内部には16世紀の部屋がそのまま再現され、当時の豪農の生活が窺い知ることが出来る。この日は丁度、結婚式を控えた新郎新婦がカメラマンを連れて庭で写真撮影をしていた。

夏蝶や渋滞車線を縫うバイク

青林檎齧るロミオとジュリエット

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中世の面影を残す町を抜けて、エイヴォン川の沿いの公園を散策。ナロー・ボートと云われる遊船がのんびりと停泊している。広場には赤い石作りのシェイクスピア劇場が聳えるように立つ。上演中の『お気に召すままに』のポスターが公園の各所に貼られている。彼の眠るホーリー・トリニティ教会は外から眺めるだけで待っているバスに戻る。

 ハワースから高速道路で3時間程一気に、シェイクスピアの生まれた町、ストラッドフォード・アポン・エイヴォンまで南下する。シェイクスピアが亡くなって400年も経った今もエイヴォン川に沿う町は彼を中心に営みを続けている様だ。昼食は名物のフィシュ・アンド・チップスで、古き家作りのレストラン。英国の代表的な食事で今少しましだと期待したが、簡単に裏切られた。渋滞による到着遅れが原因なのか、味だけでなく、店員の無愛想も気になった。

麦刈ってサーカス小屋がやって来る

涼しさや電柱の無い石の村

エイヴォン川のナロー・ボート

『お気に召すままに』の道化師の像