5日目: 427日<リスボン市内>

<サン・ジョルジョ城からリスボン市街とテージョ川を望む>

 予定通りの停留所でバスを降り、サン・ジョルジェ城を目ざすが、最初に訪ねたのが、モスクの跡地に建てられたカテドラル。建国の王アンフォンソ・エンリケスがリスボンをイスラムから取り戻した記念に1147年から建設が始まった。大震災にも耐えた堅牢な造りで、砦を兼ねたロマネスク様式に、ゴシック様式の回廊、バロック様式の祭壇が加えられた。内部では更なる発掘も行っていて、ローマ時代の遺構も出ている。

<ジェロニモス修道院の回廊>

 次いで海に沿ってベレンの塔へ向かう。雲は残っているが晴れ間が多くなってきた。その途中の公園にポルトガル飛行士によるブラジルへの初の南大西洋横断飛行に成功した水上機のモニュメントが展示されている。1922年だから、リンドバーグのニューヨークからパリへ単独無着陸の大西洋横断した5年前に当たる。

<リスボン市街とサン・ジョルジョ城>

<発見のモニュメント>

 ベレンの塔はマヌエル一世の命で1515年、テージョ川を守る要塞として造られたが、その後、通関手続きや灯台として使われた。塔の内部に入れば、一階から四階まで「司令官の間」「国王の間」「謁見の間」と礼拝堂がある。航海の安全祈願のマリア像や、堡塁には大砲もある。地下の水牢もあるそうだ。王家の紋章も中央に、大航海を終えて帰国した水夫を大いに慰めた塔でもあった。

 昼食後、ジェロニモス修道院からテージョ川べりの「発見のモニュメント」に歩き、内部のエレベーターでその屋上に上る。高さ52mで視界遮るものない360度の展望を楽しんだ。前の広場には大理石のモザイクで世界地図と各地の発見年号が記されている。
 日本の発見は1541年で、ポルトガル船が豊後に漂流した年だ。この世界地図は1960年に南アフリカから寄贈された。モニュメントはエンリケ航海王子の500回忌を記念して造られ、彼を先頭に大航海時代を築いた33人が描かれている。ヴァスコ・ダ・ガマやブラジルに到達したペドロ・アルヴァレス・カブラルや、最初の世界一周を果たしたマゼランに加えて、日本で布教活動をしたフランシスコ・ザビエルもいる。

 ジェロニモス修道院はエンリケ航海王子が船乗りたちのために礼拝堂の跡地に、彼とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称え、幸運王マヌエル一世が1502年に着工したマヌエル様式の代表的建造物。エンリケ航海王子の像の立つ南門から入れば、煌びやかで壮大な内陣に入り、そこから、最高傑作とされる回廊に至る。更に壁面をアズレージョに飾られた修道士たちの食堂も素晴しい。1970年代に訪問した時は内陣の記憶はあったのだが、改めて精緻なポルトガルの絶頂期の建造傑作を見た。

 カテドラルから細く曲がりくねった石畳の坂を上ってサン・ジョルジェ城址に入った。リスボンを訪ねる多くの観光客がこの城壁からのパノラマを楽しむように、我々も気儘な散策で時間を費やした。一望の街の上は青空、曇、一部雨の不安定な天気が所々に見える。シーザーの時代にローマ人の要塞として建てられたリスボン最古の建造物。その後、西ゴート族、イスラム、ポルトガル王家の居城となった。今は公園として解放されている。

<南アフリカ贈呈のモザイクの世界地図>

<発見のモニュメントの上からジェロニモス修道院の全容>

<ジャカランダの花>

ベレンの塔>

<モスク跡地の大聖堂と路面電車>


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四月寒期待外れのジャカランダ  うららかや今砲口は街を向く


ブラシの木咲く石畳石の垣   浮き沈む路面電車や風薫る


春うらら元祖の丸いカステーラ  春雲やザビエルも坐す航海碑  


目借り時テレビマイクを突如受け  マロニエの花や海向く聖女像  


城塞の真受ける初夏の夕日かな  まくなぎやスリがスリだと騒ぎだす

 この日の夕食はホテルの近くの海鮮料理店(Quebra Mar)。ウェブトラベルからの情報を頼りに行った。気さくな店で、雑炊も含めて蟹、海老、貝づくしの贅沢な味を楽しんだ。この店の後日談、一人が眼鏡ケースを店に忘れて来た。多分、卓の下に落したのだろう。ホテルから電話をしたが、見つからないと云う。諦めて、三日後の出発の直前に、ダメモトの積りで店を訪れて、話をしたら、大切に保管していてくれた。

 再び、二階建の市内観光バスに乗り込み、朝の出発場所に到着したら、そこで、サービス時間の終了を運転手から伝えられる。まだ日が高いのに・・・。急遽、タクシーで昨日閉門で入れなかった、天正使節の訪問したサン・ロケ教会へ向った。ところが、何を間違ったか、違う教会に連れて来られた。後で分かった事だが、エストレーラ聖堂に連れて来られた。中に入って、祭壇などを見学して、間違いに気付いた。そこから歩いて坂の多い市電通りを2キロ程歩く。市電は本数も少なく通勤の人達で混んでいる。タクシーも拾えなかったので、結局、そんな仕儀になった次第。その途中に国会議事堂の横を通って、最後はカルモ教会の横の展望台まで歩いた。かなり疲れたが、その展望台の景観は、天気も晴れ上がった事もあって、素晴しいものだった。

 この日で出来るだけリスボンを見物するべく、乗り降り自由の市内観光バスで、先ずは廻る事とした。この町を震災からの復興させたボンバル侯爵の像が立つ広場がこれら各社のバスの起点だ。雨は上がって、天気は回復に向かっているようなので、バスの二階に登り、心地よい風も楽しむ。

 時間節約の為に、城の出口に待っていたタクシーで一気にベレン地区へ向かう。リスボンの中心からテージョ川沿いにベレン地区はポルトガルの最盛期を偲ばせる世界が広がる。タクシーを降りて、ジェロニモス修道院へ向かった時に、いきなりテレビのインタビューを英語で受けた。ウクライナから来たと自称する美人キャスターが、「私の祖母も母も売春婦で、私はそれに耐えられなくてポルトガルへ逃げて来た。素晴しい国だと思うが、あなたはこの国をどう感じましたか?」「中国人と同棲していますが、結婚はしません・・・・」など、話が変な方向に向かったので早々に切り上げたが、集団スリのトリックだったのかも知れない。