<一等地バイロ・アルト地区の路地にて>

 ぶらぶらと散策し、カーブルカーで、「サン・ペドロ・デ・アルカンタラ」展望台へ上る。前方に「サン・ジョルジェ」城壁、そして眼下には街の瓦屋根が広がる。そこから、しばらくファドの店が多い「バイロ・アルト(高い地区)」地区を歩く。雨が降ったり止んだりする中を細い路地を、予約したファドの店「ファイヤ」の場所を確かめて、開店するまでの時間を更に歩いた。天正の遺欧少年使節が一カ月ほど滞在した「サン・ロケ」教会は閉門時間に遅れ中を見る事は出来なかったが、趣のある街並みの中に身を浸した。

<歩行者天国での大道芸>

<震災復興を仕切ったボンバル侯爵像>

<震災前までマヌエル幸運王の宮殿があった、リスボンの海の玄関、コメルシオ広場>

 見事な震災処理で国王の信頼を得て、国政全般にわたって改革を断行した。それに反する多くの貴族が入れ替わったり、処刑されたりした。宗教・教育を司っていたイエズス会を本土や海外領土から追放した。一方、自然科学や実学を重視した教育改革を行い、国内工業を育成した。ポルトガル植民地に深く食い込んだイギリス商人の排除や、ポートワインの限定生産区域の制定による品質向上も彼の働きによる。

 七つの丘に囲まれているリスボンは坂の多い街だ。ポルトガルの人口(約1000万)の一割が集中する。歴史は古く、紀元前1200年にはフェニキア人が港をここにつくった。その後、ギリシャ人、カルタゴ人なども港を使い、紀元前3世紀頃からローマ帝国の支配になる。ローマ帝国の衰退は町の衰退につながり、西ゴート族の侵入、更に、イスラム・アラブ(ムーア人)が入る。1147年のアフォンソ・エンリケスによって、ムーアの勢力からリスボンは奪回され、レコンキスタ(キリスト教の国土回復)終了後の1255年に首都はコインブラからリスボンへ移された。


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 リスボンのホテル・ブリタニアにチェックインし、早速にファドを聴かせる店「ファイヤ」を予約し、街に出た。天気は不安定だが、三人とも歩く事は厭わない。

 旧市街地と西に少し離れたベレン地区を、明日を含めての一日半だけの時間を有効に使って、そして、急がないペースで廻りたいと思っていたが、それは、概ね達成された。

 大航海時代には繁栄を享受し、町は西ヨーロッパで最も美しいとされた。その町を1755111日、大震災が襲い、壊滅した。この震災の処理と復興を指揮したのが、駐ロンドン、ウィーンの大使を勤めたボンバル侯爵。負傷者の手当て、死者の埋葬、ペストの予防、犯罪の防止などを指揮する一方、早々に都市再建計画を作り、教会も含めて、民間の勝手な建設を禁止した。広い街路、公園、広場を整備するとともに、建物の高さを制限した。地主は五年以内に建物を建設できないと売却を命じられた。貴族の館は山の手へ、新興のブルジョアが中心部の土地を手に入れた。この先見性ある都市再建計画の果断な実施が、現代も残る見事な景観となった。

 先ずは鈴懸の並木若葉が眩しい、中央通りと云うべきリベルダーデ通りを下ってテージョ川まで行く。途中から鈴懸の並木道は歩行者天国の石畳の道に代わり、道の両側には軒を連ねて店があり、道なかではパントマイムも出ている。観光の中心なのだろう。リスボンの海の玄関口になるコルメシオ広場の水辺にまで行き、1755年の大地震に続く大津波による震災から復興と、昨年の東北大震災に想いを重ねる。

鈴懸の花やモザイク石畳       復興の街を見おろす像涼し
  

突堤に赤いターバン暮の春


革命と叫びしメーデー石畳      金泥の女芸人涼しき目