10月29日・30日 (ダージリン→バグドグラ→デリー→成田)

 ダージリンの宿Windameraでは至れり尽くせりのサービスをしてもらえる。
湯たんぽをベッドに入れてくれる。暖炉は手を汚して石炭に着火させる。夕食のメニューは毎日替わって、メインにはand/orで洋食(肉類)とカレー(野菜)が並んで、食事制限のある観光客にも対応している。(私は両方を摂ったが・・)
モーニング・コールも電話で起こすのではなく、ボーイがドアーをノックし、紅茶とクッキーを直接に手渡される。イギリス・インドの伝統かも知れないが、アメリカ的な合理主義とは異なる素晴しい時間を過ごせてくれる。(ただ、最初の晩に停電があり、その時は、これが日常的かな?と訝った)

十月のうつつかヒマラヤ桜どき

 ダージリンは標高2134mの尾根だが、バグドグラは標高140mしかない。途中に茶畑があるが、低地の茶葉は安価なアッサムティーになる。

バグドグラの町の風景

 更に空港の近くの平地では町の雰囲気が様変わりして、聖牛が堂々と道を歩いていたり、人力タクシー(ツクツク)が牛を避けながら走っている。ガイドが車を橋に止めて、河原で石を集めている人達を見せてくれた。ヒスイなどの輝石を探しているのかと思ったが、建築土木に使われるらしい。いかにも人手に頼るやり方だ。この村はこの採石で何代も生計を立てているらしい。

ヒマラヤ桜

コスモスが美しいWindameraの朝

 空港に近くは基地と軍の施設が建ち並ぶ。この辺りでは写真撮影は出来ないが、軍の町が広がり、その間を走り抜ける感じだ。勇猛と言われるターバンのシン族やグルカの軍人が目立つ。

河原で石を集める人々

シッキム王国とダージリン(終)

帰国後に、中国文化院の作ったチベット芸術の写真集を見る機会があった。中国側からのチベットの見方が書かれていた。それによると・・
 「チベットは幾世紀にも亘って農奴制を取っていた。農奴として虐げられた人々を解放し、特権階級を廃止して、チベット人の自治を確立したのが人民軍である。しかし、文化大革命による宗教破壊で、人々に農奴時代とは異なるもう一つの苦痛を与えた。」と記されていた。

台風の眼と睨みあう機窓かな

帰国便の飛行機が日本上空に入った頃から、雲に覆われ下界が全く見えなくなった。紀伊半島辺りでは、フライパンを伏せたような雲が見えて、それが台風の目だと到着後のニュースで知った。この日は欠航便も多かったが、飛行機は紀伊半島でこれを追い抜いて無地に着陸したのだった。

 今回はインド航空機だったが、JALなどに比べてエコノミー座席に奥行きがあり、楽な飛行時間を過ごせた。

 空港の食堂で昼食を済ませて、デリーへ向けて発つ。素晴しい説明をしてくれたガイドと安全に徹した運転手には感謝のチップを弾んだ。

デリーで国内線空港から4キロ離れた国際線空港へデリーの日本語ガイドが送ってくれた。デリー新空港では1時間もしないでチェックイン・入国審査も終えた。以前の空港では4時間は当たり前な状況だったので、大幅に改善された。アテンドしてくれたデリーのガイドもそう話していた。

喧騒の街聖牛の秋思かな

独学の日本語ガイド秋高し

 そんな宿をいつもの車で出発する。前日に乗ったトイ・トレインの線路沿いの道を走りダージリン地区をバグドグラ空港へ南下する。
 途中のクルシャンで紅茶と餃子で一息入れる。この辺りには桜が咲いている。最初は10月桜かな?と思ったが、知る人ぞ知るヒマラヤ桜。これは日本桜の源流らしい。楚々とした美しい花で、この桜を見に日本から毎年来る人もいると、K氏の話。
 クルシャンを過ぎて、イギリス軍が切り開いた一方通行の道、Old Military Roadに入る。そこからは渋滞も無くジグザグながら一気に山を下った。

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