10月28日AM10時〜 (ダージリン)

 トイ・トレインに乗るためにダージリン駅へ向かう。正式名は「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」で、開業は1881年、1999年には世界遺産にも登録された。コルカタ(旧カルカッタ)からダージリンまでの570キロ、標高差2000mあまりを7時間半かけて登る。線路幅は61cmしかない、正に玩具の様に小さいSLだ。今では、長距離はディーゼル車が牽引して、SLは観光客のためのグームまでが多い。

 昨夜も部屋の窓から見ていたが、宿に隣接するチョウラスタ公園広場の舞台で民族歌舞の催しがある。その広場へ夕食後に散歩する。残念ながら催しは終わっていたが、商店が軒を連ねて賑わっている。ヒンズー教関連の仏具、本屋、茶屋、そして、食堂もある。本屋に立ち寄ったが、多くの白人がチベット仏教やヒンズー教の本棚に居るのが興味深かった。

 訪問したのは1852年創業の工場は400ヘクタール以上の農園を有し、丁度、その農園から秋の茶葉が入り始めたばかりの様だった。ガランとした古い工場で、英国製の大きな発酵させる機械が止まっている。この農園・工場の従業員は1500人程で、会社が住居、娯楽・福祉、教育なども世話している。村のポインセチアが美しい。途中、ダージリンの茶店で本場の紅茶をいただき、宿へ帰る。

茶摘みを終えて工場へ(←)と紅茶作りの従業員が一緒に住んでいる村(↓)

 我々はそのSL車でダージリンを1030分発、グーム迄の約50分に乗車した。一車輌に15人が座り、二輌連結でゆっくりと主に道路沿いを走る。乗った区間は緩い坂だったが、牽引力の強い後ろ向きに蒸気機関車を先頭に繋いで牽引させている。途中で水を補給するために5分ほど止まるのもご愛嬌だ。

次にチベット難民センターへ行く。中国チベット自治区から逃れたチベット人の自立支援のために1959年に設立された。学校、孤児院、託児所などがあり、工芸作業所の作品売り場もある。マイクロバスが2台、「台湾から寄贈」と車体に大きく書かれていた。ダライ・ラマ14世を頂点とする、政治体制図やチベット国地図などの展示もある。この地図によれば、チベット領土は今の中国の40%を占める


 一番のハイライトはパタシア・ループ。ここで螺旋状に360度一周して、高度を上げる。上がった丘からはカンチェンジュンガの大展望でき、花の美しい公園にもなっている。この公園にはグルカ兵の戦没者の記念塔がその中心に建っている。ここでは、汽車は少し止まって、乗客はこの公園に降りて一息入れる。大勢のインドからの観光客がこの丘でトイ・トレインを待って、写真に収めていた。終点グーム駅には鉄道博物館があり、この鉄道の建設当時の説明がされている。

湯たんぽを蹴り出す異国の旅女

秋祭終えし広場の朝掃除

パンチェン・ラマの捜索ポスター

チベット難民村(←)と掲げた地図(↑)

撮られつつ花野を巡る陸蒸気

雪山を遠く見上げて汽車喘ぐ

山襞にポインセチアの垣明り

チョウラスタ広場にて青と赤のポスト

宿から見える舞台

背もたれの角度ほど良し暖炉焚く

難民はあの雪嶺を越えて来し

 難民センターから紅茶工場へ行く。この地での茶の栽培は1850年頃に始まった。英連邦には多くの茶がつくられるが、ここダージリン産は長年に亘って常に上位の紅茶としての評価を得た事から世界的に高級茶として知られるようになった。以前より農園の数は減っているが、近隣の村の総がかりで茶を育て、年に4回摘み、工場へ運びこむ。

印象的なのは、ダライ・ラマの認定したパンチェン・ラマ11世の奪回ポスターだ。パンチェン・ラマ11世(俗名はゲンドゥン・チューキ・ニマ)は6歳で即位したが、中国・国務院はこれを認めず、両親共々少年を連行し、別な少年をパンチェン・ラマ11世として即位させた。
2人のパンチェン・ラマ11世の問題はチベット難民にとっては、中国のチベット制圧の象徴的な事項なのだ。文化大革命時の中華人民解放軍による、拷問や虐殺の写真も展示されていた。ウィキペディアによれば、パンチェン・ラマはチベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ高位の称号だ。(現地ガイドのKさんの説明では、逆で、パンチェン・ラマが天、ダライ・ラマは地、リンゲショウが人と云った)

トイ・トレインの見どころ、バタシア・ループ(↑)にて戦没記念塔とネパール民族衣装(↓)終点のグーム駅(↓)


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