閑話休題: シッキム王国とダージリン

 17世紀にインドを植民地としたイギリスがこのシッキム王国と関係を持つようになったのは、18世紀末に東インド会社の領域へネパールのグルカ兵が侵犯したため、同じくネパールに簒奪された失地回復を願うシッキム王国と同盟関係を結んだ。

 その後、イギリスは酷暑のインド植民地経営する中で、気候温暖なシッキム方面に目を付け、保養地として借地をシッキム王朝に申し入れ、1835年、シッキムの領土だったダージリンをイギリスへ割譲した。これにより建前上のダージリンの借地料が毎年シッキム王朝へ入る事になった。(これは今でもインド政府がそれに見合う援助をシッキム州へ与えている。)

シッキム王国の国旗

 これ以降、イギリスは茶栽培のために、勤労な多くのネパール人をこの地域へ受け入れた。これにより、王室はレプチャ人だったが、第二次大戦後のインド独立時にはチベット系のブティア人より少ない少数派になってしまう。(今はネパール人75%、ブティア人15%、レプチャ人7%)

 しかし、ダージリン割譲をシッキム側では不満を持つものも多く、シッキムの警察が旅行中の英国人を突然逮捕する事で、一気に両者の対立が生じた。この関係を正常化する過程でイギリスは種々に亘って圧力をシッキム側にかけ、1861年の条約ではシッキムを事実上の保護領にしてしまう。

 当時の地政学的には、ダージリンはチベットへの通商の要であり、また、アヘン戦争後でもある、チベットの宗主権を主張する清国への牽制も計算されていたのだろう。

 他方、旧シッキム王国だったダージリン地区には西ベンガル州からの独立を目指すグルカランド、即ち、グルカ人(ネパール山岳民族)の自治地域がある。数十年に亘る西ベンガル州政府の搾取を不満として、州からの分離独立を図っている。電気や水不足、教育など州政府は税金を取るだけで、グルカ地域へ還元がなされていない事が大きな理由、とガイド氏の話。これに伴う殺人事件も4カ月前には起きている。

ダージリンの町では多くのトラックが飲料水用のタンクを運んでいるのを見た。水道インフラも少ないのだろう。ホテルでは停電があった。

英国・Telegraphネットによれば、2009年9月17日に、グルカランドは一方的に独立宣言をしたとある。)

シッキムへの検問所


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 インド独立後は、中印関係の中でのインド軍のシッキム駐留などシッキムの自治は次第に浸食された。この時の駐留インド軍人の数はシッキム総人口の20%にも至ったとも伝えられている。
 シッキム王朝の最後の王妃は米国女性だったことも、当時の世界情勢からインドとの関係を崩した。併せて、選挙制度の導入など民主化への動きと共に、少数民族のレプチャ人の王への反王室派運動も次第に激しくなり、それらに耐えきれぬ形で、1975年の4月のシッキム議会での王政廃止決議とインドの州とする決議がなされ、シッキム王国は消滅した。

シッキムへ入境検問そぞろ寒

最後のパルデン王とアメリカ人の妃

 その前身のシッキム王国は1642年にチベット仏教のニンマ派の僧によるナムギャル王朝で成立し、そして、1975年に消滅してインドの州として編入された。
 シッキム州はインドの28州で最も人口が少なく(55万人)で、面積は2番目に小さい。(7000km
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 現在、シッキム州へ入るには特別許可証が必要だ。しかし、「中国、パキスタン、バングラデッシュ、ミャンマーの旅券には許可は出ない」とガイドのK氏の話。また、中国との国境までのツアーもあるが、ここはインド人だけが許可されているとの事。・・・なかなか複雑な事情があるようだ。

 それと、シッキム州は酒税が無い。昼から飲む人がふらついて歩くために、車との事故が多いらしい。そう云われれば、そんな人を何人もすれ違った。ガイドのK氏も途中で酒を購入していた。

ホテルに飾られた王国時代の屏風絵