16世紀に建てられ、当初はこの貿易都市を出入りする物資財の管理所だったスポンザ宮殿では、クロアチア紛争時にセルビア軍を主体とした連邦軍の爆撃で受けた被害の展示があった。
 先ずはその展示を見る。これら犠牲者の写真やこの歴史遺産の被害がクロアチアの忘れえない憎しみの記憶なのだろう。

スポンザ宮殿での戦争展示

城内の青果市場

金雀枝や十字架の立つ瓦礫山

赤屋根の犇めく城内日の盛り


「その後のサファリ」のTOP       back             next          HOME

要塞の上で手を振る白日傘

朝凪や日を燦と浴び客船来

旧市街には青果市場などへも足を延せて、早朝での約3時間の観光は短いなりに有意義だった。

今でも飲める15世紀からのオノフリオの噴水

525

 朝日に耀いて白い豪華客船がドヴロヴニク港へ向かうのがホテルの部屋から見える。静かなアドレア海を滑る様にして、白波も水脈も立てない。

 旧市街へ戻り、そこから現地ガイドと共に行動する。

 町を囲む城壁のピレ門より『アドリア海の真珠』の中へ入る。ドヴロヴニクはスラヴ語の名称で、ラテン語ではラグーサと言う。ローマ人の末裔の避難所であったラグーサ共和国だが、異民族だったスラヴ人も、共和国の誕生の頃から平和的に移り住んだ。当初、スラヴ人は北の山側、ローマ人は水路を挟んで南側に住んでいた。

朝のドヴロヴニク港へ向かう客船

 その水路を埋めてプラツァ通りが出来、両者は一体となり、協力し合って町の発展に尽くしてきた。
 そして、1516世紀にはラグーサ共和国として最盛期を迎えた。海洋都市のヴェネツィアとは逆に、オスマントルコとは対峙することなく、バルカンでの宗主権を認めて、東西貿易で栄えたようだ。 
 しかし、17世紀の大地震でお甚大な被害をうけて、瓦礫となったと云う。
 また、クロアチア紛争時の1991年、ユーゴスラビア連邦軍の攻撃で『世界の危機遺産リスト』に登録されるほど町は破壊された。その時の写真とビデオが建物の一つで展示されていた。 
 その後、市民らの精力的な修復が行われて、昔の姿に戻り、1994年にはリストから削除された。

 我々のツアーバスも8時の出発で、『アドリア海の真珠』と言われるドヴロヴニクの観光へ向かう。

 先ずは、ドヴロヴニクの全景が見える所まで山を登る。静かな真っ青な海とオレンジ色に統一された旧市街のコントラストが美しい。山には原産の金雀枝が咲き乱れて、黄色い彩りを添えている。僅かな道肩のふくらみのガードレールに、刺繍のクロスを掛け並べて、地元の老女が売っている。

金雀枝の咲く丘から『アドリア海の真珠』を一望する

町の中央を走るプラツァ通り

 そこから町全体を囲む城壁に登り、北側を半周してピレ門へ戻る。城壁の上から旧市街の屋根を間近に眺め、更に要塞へ登れば、アドリア海を背景にして素晴しい一語に尽きる。この町の生活者と観光客のざわめきなどが海風に乗って聞こえる。

 「海側の半周は魅力が無い」とガイドの話で、半周だけで城壁を降りる。残った時間を使って、旧市街の散策にした。

要塞から見た町↑

城壁と堅固な要塞↓

 15世紀に造られたオノフリオの噴水から、200メートル程プラツァ通りを歩けば、町の中枢機能があるルジャ広場へ着く。そこにはスポンザ宮殿、総督邸、フランシスコ会修道院、聖ヴラホ教会など1416世紀の建造物が続く。広場を抜けて港へ出る。

 港の近くに検疫所がある。ここで、外部から来る人や物は町に入ることを40日待たされた。40の[Quaranta]が、検疫の「Quarantine」の由来とガイドが説明する。今は観光やレジャー用のボートが港に停泊している。