5月23日
オパティアの町の中心はホテルやカジノが並ぶチトー通りが貫いている。チトーはスロベニアとクロアチア人の混血だから、彼の名前を冠した道路名は残っているのだろう。クロアチアと対峙したセルビアでのチトーに対する評価はどうなのだろう?

旧市街へ向かう道沿いに、遺跡を土台にして、ガラス主体の図書館があった。古い物を壊さず、それらを活かして新しい街を作っているのだ。
オスマン帝国から守るために、寺院の要塞化が次第に進むが、18世紀にヴェネツィア共和国の滅亡によって、この町はハプスブルグ帝国の支配下になる。更に、第一次大戦後はユーゴスラビア王国の一部、第二次大戦ではイタリアファシストとナチスに占領された。
この日はトロギールに宿泊する。何度もクロアチアを訪問している添乗員によれば、この宿泊施設は旧ユーゴスラビアの官僚の保養地として建てられたそうだ。遊園地、テニスコートやゴーカートコースもある。
近くの海まで散歩すれば、家族連れが、それぞれに日曜日を楽しんでいた。
猫の餌場
国道A1からのディナル・アルプス
シベニクを出て間も無く、リゾートとし有名な、アドリア海へ突き出たプレモステン要塞が見えてきた。短いツアーだから要塞へ入る事は叶わないが、スロベニア人のバス・ドライバーは写真ストップとして、路肩に停車してくれた。5分ほどだが、プログラムにないこの様なサービスは嬉しい。
トロギールの海辺
道のべに青衣の聖母涼しかり
夏日負う市民の首のよりどころ
現地ガイドの話では、クロアチアへの観光客は団体客では日本が一番多いとの事、2009年は前年比140%伸びたらしい。因みに、個人ではドイツからの客が一番多い、との事。
また、日本からの観光客の受け入れには、英語のガイドが少なすぎると添乗員が話していた。クロアチアの外国語教育は英語より、ドイツ語、イタリア語が優先されているようだ。
聖堂に残る弾痕日の盛り
そのオパティアから5時間かけて、350キロ離れたシベニクへ向かう。クロアチア最大の貿易港のリエカを通過して、アドリア海岸沿いの曲がりくねった道から、内陸の高速道A1へ入る。バルカンの背骨、ディナル・アルプスの山々を眺めながら南下し、アドリア海に沿ったダルマチア地方のシベニクへ到着。
この頃、この町は15世紀初頭まで海洋都市ヴェネツィア共和国の支配に抵抗しつつ、15世紀後半はオスマントルコと対峙したが、征服される事は防げた。外壁に大聖堂を作った協力者と言われる72人の人頭彫刻が並んでいる。国難に向かうシベニク市民の顔には決意の様な強さが見られる。

要塞の島を闊歩の水着かな
北の入口の左右の石柱には無花果の葉で隠す裸体のアダムとイヴの彫られて艶めかしい。この石柱に挟まれた金属の扉には1991年のクロアチア紛争時に連邦軍(セルビア軍)から受けた弾痕がいくつも残っている。

食堂は数百人も入れる巨大な部屋で、モスクワのホテルを思い出した。
家族連れや他の団体も加わって、同じ時間帯に食事が定められている。
ビュッフェスタイルなので、長い列に並ぶ。配給を受けるように皿に料理を乗せるやり方は夕食には好まない。旧ユーゴ施設の有効活用は理解するが、共産国家のサービスは馴染みにくい。
シベニク旧市街は石畳と石の階段が石の家々の間を縫うように走っている。戦争や疫病(ペスト)などで、外出禁止令が出ても、野良犬や野良猫が困らないように、家の石壁に餌場が設えられてある。何か微笑ましい。
プレモシュテンの要塞
聖ヤコブ大聖堂




東の壁の市民の頭部(奥にライオンが彫られている)
北入口のイヴの像