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 この日も好天。ミニバスで迎えに来たラオス青年同盟のPさんとビエンチャン郊外の身障者リハビリセンターへ行く。建物の一つには「日本政府と人民の支援で建設」とのプレートがあった。ジャパンでなくピープル オブ ジャパン>が社会主義の国らしい。治療とリハビリだけでなく、義足を作る作業場や車椅子の工場、寮の施設も整えられている。五・六名の子供が治療に来ていた。しかし、担当の女医さんの話では、「肢体不自由児をこの施設にまで連れて来る事が出来る家庭は少ない。アクセスの手段が無いのが実情だ」との事、彼らは家でしか日を過ごせないのだ。

 ここで聞く事はなかったが、ラオスは最も多くの地雷や不発弾が地中にあると云われる。ベトナム戦でのアメリカ軍がラオス内を走る北からの補給路(ホーチーミンルート)へ攻撃した遺産だ。当時、人口300万人に300万トンの膨大な爆弾が落とされたらしい。今でも毎年百人近い犠牲者があると云われる。と同時に、これらの薬莢は拾われ、貴重な鉄として、家を支える柱やプランターなどに再利用されている。貧しくも逞しく、そして、悲しい。このセンターにも薬莢のプランターが置かれていた。

 引渡式の前ではあるが、ラオス青年同盟のPさんが日本から到着した四台の子供用車椅子をセンターの責任者に渡した。治療に来ていた子供たちに乗ってもらったが、その笑顔が忘れられない。

 午後はPさんがラオス青年同盟の本部へ案内した。そこで、麻布の大使館でラオス大使への事前説明に同行したBさんと再会し、彼の仕切りで引渡式が行われた。独立記念日の翌日と云う事で、子供たちが式典に参加が出来なかった事は残念だったが、この様子はビエンチャンのマスコミも採り上げ、載った新聞が、後日、送られてきた。式で使われた垂れ幕などはKさんが丁寧に畳んでもらい受け、日本でこの事業に協力したボランティアの方々へのうれしい土産となった。

 夕食はラオス青年同盟のこころあたたまる招待を受け、ラオス料理と伝統舞踊の店でBさんら青年同盟の幹部の方々と歓談した。

年内に届け少女の車椅子
爆弾の解体されて葱の鉢
四肢障害リハビリセンター内の子供達と日本からの車椅子(上左)
同センターに置かれたクラスター爆弾のケースを利用した植木鉢(上右)
引渡式を伝えたラオスの新聞(右)

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