
父の「戦争備忘録」−5
モロタイ島を奪還しなければならないと、連隊を編成して逆上陸にかかった。兵站部ではこの準備に忙殺されて食糧など全てをゴム袋に入れて、海水に浸っても濡れないようにして、湾岸まで運び出した。然しこの逆上陸は成功しなかった。上陸軍は海上補給が続かず解散するより方法はなかった。兵らは飢えを凌ぐため敵陣に切り込みまでもやったとの事だが、その後の音信は途絶えた。
昭和20年6月、ぼく一人に兵器廠へ派遣命令が出た。ビワアック島が全員玉砕したのは、乾電池が腐食して、敵が上陸したのに軍本部への通信が遅れた為とか、このような事がハルマヘラにあってはならないので、兵器廠に野積みしている乾電池を再生せよとの事だった。
応召時まで乾電池工場で働いていたので選ばれた次第だが、製造作業の経験は全然ないので若干の心配はあったが、命令なので受けざるを得ない。
兵器廠に行って驚いたのは、野積みの乾電池は兵器本部から大量の受注をして大阪工場で製造した懐かしい電池だった。
湿度の高いジャングル内でシート一枚の野積みでは殆ど使用できない。それでも開梱して、B18型電池を素電池に分解して1.5ボルト以上のものを選び、再び連結して22ボルト半にする単純作業である。これを3人で担当する。然し兵器廠の食糧は極度に逼迫していたので、電池の再生作業は殆ど出来なかった。もうこの頃は食べる物は芋の葉に米粒が若干混じっている程度で栄養になるものはない。体力は日に日に衰え惨めなものだった。
これまでは貨物廠のお陰で体力の保持が出来たが、兵器廠派遣になった途端に食糧不足に苦しみ、一般の兵は大蜥蜴を食べるとか、樹に棲む野ネズミを捕るなどして、食べられるものは何でも探した。茸など縦に割けるものは食べられるが、時には毒キノコで激しい下痢する者もあった。生きるためには、色々な知恵が出て、餓死者は無かったが、ただ、細々と生き続けるだけだった。
昭和20年1月になって、我々の部隊もハルマヘラ野戦貨物廠に転属となる。長い間、新兵でいた兵へ進級の発表があった。若い応召兵も二等兵から解放され気分的に大変楽になる。
ハルマヘラ島ガレラ湾の対岸がモロタイ島で、この島はハルマヘラの喉首に当り、日本兵が占領し守備していたが、米軍は艦砲射撃と大空襲で上陸をして、日本兵は散々な目にあってハルマヘラ島へ引き揚げた。
その時のハルマヘラ全島への空襲は凄まじいものだった。日本軍の高射砲陣地を主目標とし、軍基地と想われる所は猛烈な爆撃と機銃掃射で、弾が自分をめがけて射撃しているような錯覚で、大木の根元に這いつくばって暫く動けなかった。一時間程して激しい射撃の音が止まったのでこれで命は助かった。我々の部隊には戦傷者もなくみんなでほっとした。
モロタイ島に上陸した米軍は機械力と物量で直ぐに飛行場を建設する。この飛行場から毎日空襲を受ける。また、絶えず空から監視されているので、補給は全く出来ない。その上で、ほんの僅かな煙でも適確に空から爆弾が落ちるので、炊事は夜明け前にする。それでも危険という事で、長い煙道を炊事場からかなり離れた所から煙が出るようにしている。
云ってみたら、ハルマヘラ全体が捕虜になった様で、なんの行動も出来ない。