復員船は予定通り出航し、好天の上に波も穏やかな快適な船旅だ。敵の制約を受けないだけでも晴々する。さて、この船は日本のどの港に入るかは全く知らされない。入港地にとっては、故郷に帰るのが大変な事になると案じていたが、その不安が的中して、山梨からは遠隔地の和歌山県田辺港に上陸した。

野戦帰還者は上陸するとすぐに消毒の風呂に入れさせられて、身体検査を受けたが、別に異常も無かった。次に、無事帰国したことを知らせる電報を打つために郵便局に駈けつけた。気持ちは先走るが、電信が乱れているので、何日かかるか配達予定が分からない。そのことが承知であれば受け付けるとの返事だったが、それ以外に連絡方法が無いので、電報を依頼して、先ずはほっとした。

 引揚兵の収容所は莚の敷かれた板床であったが、一人でっゆっくり休める広さもあり、食事はご飯に魚・味噌汁等日本の味を配慮してくれたので、天国にでも来たような嬉しさだった。

 ハルマヘラでは全く見なかった女性が素晴らしく綺麗に見えた。女性の中には米兵と手を組んで、毒々しい化粧した人もおって、これが大和なでしこかと憤慨すると同時に、占領下の敗戦国の姿が次第に見えてきた気がした。

 支給された300円の復員手当が随分と沢山なお金と驚いた。それまで使い道も無い1040銭の月給だからその様に感じたが、インフレによる物価高に戸惑い、頭の金銭感覚がおかしくなった。

 鉄道の時間も、運行本数が少ない上に、いつ発車するか全く当てにならないのだが、予定された列車に乗車しなければならない。窓ガラスのメチャメチャに破れた満員列車に押し合いながら重なる様に乗り込む。このすし詰めの状況は体験者でなければ、到底想像できるものではない。然し、せんそうが終わった安心感で苦痛と思うこともなく、一刻も早く両親・妻子のいる故郷、山梨に帰りたい気持ちが一杯だった。

 

*おわりに

 日本の戦前は貧困のどん底。財閥や特権階級のみ勝手な事が許された時代。そして、戦争で国民の多数が兵士に狩り出され、多くの若者たちが死んだ。総てが目隠しにされているので、一般の人達は情況すら解らず、唯、忠君愛国の名のもとにお国のために働いた。

太平洋戦争も末期近くになると食糧も絶えて、勝手に島のあちらこちらを食探しをして生き延びた。

 敗戦から米軍の占領下に入り、若干のごたごたはあったが、生きながらえる事が出来た。焦土となった日本再建も我々の双肩にかかり、唯、がむしゃらに働いた。

 復員して、政治、経済、教育も立派に路線が敷かれた中で、喜びも苦しみも総てやり尽した人生だった。

 このような生涯を少しでも知っていただく様に、ものかきでもないので拙文だか、実感を綴った。その積りで読んで頂きたい。

                   麻義

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父の「戦争備忘録」−6