水平線の彼方から夜の帳が白々明け始めた。遥か前方には緑のハルマヘラ島が霞んで見え、あれが我々の上陸する島だとほっとして昨夜から一睡もしない眼をこすりながら朝食の準備を始めた。昨晩の事もあるので、殆どの者が甲板で食事をしている。

その時、船首にいる船砲隊から大きな声で「敵魚雷3発がこの船に向かって走っている」と伝えられる。船砲隊長が砲手を指揮しながら、1番魚雷、2番魚雷、3番魚雷へ機関銃と高射砲を水平に下して射撃を開始した。

敵飛行機に備えての戦砲隊も魚雷に向かっての射撃は全く命中しない。船は魚雷を避けるために回転させている。1番魚雷は船首をふって避けることに成功した。舷側すれすれに大きな魚雷が走って行くのが良く見える。2番魚雷は300メートル位の前方で航跡が消滅したので、海没したようだ。3番魚雷はこの船の船腹に向かって進んでくる。機関銃で一斉射撃をするが命中するものではない。船は旋回して魚雷をかわすことを続けているが、到底、間に合わない。自分の足元に直撃を受けるような気がした。遂に避けきれず船首に命中した。一大轟音と共に水柱が天高く立ち昇りさっきまで魚雷を射撃していた艦砲隊全員も水柱と共に吹き上げていった。

水煙は再び木片や塵と一緒に落ちて甲板の排水口を塞ぎ海水が流れ始め、この船も遂に沈没する運命だと、気の早い兵は次々と海中に飛び込んで行く。船が沈む時には早く船体から離れないと渦に巻き込まれるので、ぼくも覚悟を決めて左舷側まで来てみると、未だ吃水が高く沈没するとは断定できない状況だった。

そのうちに船首は危険だから後部甲板に移動が始まった。みんな夢中になって動いている。船に固定している貨物積み降ろしのウィンチが魚雷の衝撃で留め金がはずれ、グラグラしている。兵は一刻も早く後甲板に進みたい。ある兵はウィンチに付いている大きな引掛け鍵で横から頭に当てられ即死する。また、将校の一人は軍刀を背に柄がひっかかり前に進めない。「誰だ、俺を捕まえているのは」と怒鳴り散らしている。

押されながら後甲板に行くと、兵たちは煤で顔も服も真っ黒くなっている。水柱と共に落下した木片の間に、手や足の肉塊が落ちている。船砲隊の兵が真下に魚雷を受け、空中に吹き上げられ、木切れと一緒に後甲板に落下したものだ。

 つい数分前まで魚雷と闘っていた兵が一瞬のうちに無残な姿で戦死した。煤で黒くなったのは大きな煙突が水柱の海水を浴びた油煙のためだった。

船首には直径五メートル程の大きな穴があけられ、積んでいたドラム缶に油が一杯に詰まっていたので、その油が船倉は勿論海上にも流れ出し、火災の恐れを心配して火気の使用は一切禁止された。もし、船が火災になったら海上も火の海となり、殆どの兵は焼死体になったことだろう。

深傷を負った建和丸は眼前の港に向かってよたよたと進みだした。後甲板で水平線に浮かぶ島々を眺めていると、僚船の船尾にまたまた魚雷が命中した。この船は急造した戦時形で、内部に船倉壁がないため、一発の魚雷で船尾から沈み始め、まもなく垂直に船尾を上げて海底に沈んでいった。後日になって解ったことは、この船は大量の食糧を積載していたので、随分と食べ物には苦しめられた。

海は静かな綺麗な朝を迎えながら、この惨事にあう人間の命なんて全く予断は許されない。運不運はほんとに紙一重である。

船首に大きな穴を開けられながら建和丸は沈没を免れ、のろのろとハルマヘラ島ガレラ港に入る。

上陸が開始され陸上に立った兵は「これで命は助かった」とほっとした。船はどうすることも出来なかっただけに、もう沈没はない事への嬉しさは格別だ。

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昭和198月頃は戦争の雲行きがだんだん怪しくなって、7月、サイパン島が陥落した時、ハルマヘラの飛行機は総てサイパンに飛び、そのまま帰って来なかったので、空も海も戦闘力は零に等しい。輸送貨物船が仮桟橋に停泊しても何時空襲を受けるか不安のため、船から貨物を降ろす時間が限定される。このため停泊すると短時間内に手当たり次第荷物を降ろす。

桟橋には大勢の兵が待ちかまえ、降ろされた荷物を背負って適当にジャングル内に山積みにする。決められた時刻になると、船内に荷物が残っていても輸送船は桟橋から離れ去ってゆく。従って、送票と荷物の数とは内容も数量も全く違ったものになる。後日、山積みされた荷物の員数を調べなおす。空襲の被害からこれらの荷物を守るために、小さな野積み倉庫を沢山造って、5つ位を単位に庫手が付く。もう制空権も海上も総て敵に握られ、毎日B25の敵機が上空を旋回しており、怪しいと思う要所には爆弾を落とす。兵は毎日、防空壕を掘るとか、敵戦車に爆薬をもって、体当たりの玉砕演習などで、死を覚悟せざるを得なかった。

敵に上陸されても持久戦に備え、ジャングル内に野積みの食料だけ山の洞窟に積み替える命令で、この運搬させられた。道なき丘と走り根が這い回るジャングルや歩行すら困難な尾根を、乾パン1箱を背負って洞窟まで運ぶことは、体験の無いものとっては大変な苦しみだった。兵一人の割り当ては13梱包を運ばなければならない。乾パン一梱包は34キロだが、毎日のスコールが午後2時ころまでに決まって来るので、約1500m道のりを運び終えるのは並大抵ではなかった。体力のある兵は午前中に作業が終わり、兵舎でごろ寝している姿が羨ましかった。

夜間は戦地なので、順次歩哨に立たされたが、対空警戒だけを知らせる任務だから気楽なものだ。戦友と身近なことなど雑談しながら約2時間毎に交替する。その交替時間は誰も時計が故障して使えない。そこで、襤褸を編んで縄を作り、尖端に火をつけて縄の燻る長さで歩哨交替をするなど面白いアイディアも出た。物音無く静まりかえった夜空に南十字星を眺めて郷愁に耽り、これからどのようになるのか心残りの事ばかりだった。

この先遣隊は魚雷攻撃を避けるために木造船で出航したが、空襲で殆どやられたと、情報が入り、以後のニューギニア行きは中止させられた。

ハルマヘラ貨物廠に配属となり、ワシレ湾の奥地に移動する。海岸にはジャングルから続いている椰子の群生林やマングローブが生い茂り、道路は日本軍が造った僅かのものがあるだけで、自動車運転要員だった兵の殆どは庫手(倉庫番のようなもの)にさせられた。

これが幸運だった。重労働も少なく、各部隊に出荷伝票によって食糧衣糧医薬品を渡す任務である。倉庫とは名ばかりで、ジャングル内に点々と野積みして、その上にシートで覆い、椰子の葉で敵機に見得ない様に遮蔽してあるだけだ。

海岸に立って安心できたのは良かったが、宿舎はなく、昼過ぎには決まって激しいスコールが来るので、それまでの3時間ほどで仮宿舎を造らねばならない。幸い殆どの兵が船倉を体験した者だけに、数時間内に宿舎建設は完了する。直後、待っていたかのように大粒の激しいスコールが来た。

ハルマヘラ島は日本の四国ほどの面積でニューギニアの兵站基地であると共に豪州進攻の軍団の駐屯地でもある。我々もニューギニアに行く輸送中の部隊であるが、戦況が悪く待機するためにこの島に居る事になった。

約1ヶ月経ったときに、第1回ニューギニア行き先遣隊を募集したが、忽ち予定数を上回り、ほっとさせられた。もし希望者がなければ、絶対命令で指名される。

父の「戦争備忘録」−4