*太平洋戦争のころ

昭和16128日に開戦した太平洋戦争は日増しに苛烈になってきたので、何時、再び赤紙(召集令状のこと)がくるやら一抹の不安な気持ちが絶えず頭の内を去来している。新聞やラヂオニュースは華々しく日本軍の勝利ばかりを鳴り物入りで報道しているが、真実はどうなのだろうかと、若干の疑問は感じない訳ではなかった。

昭和19年、大阪工場から転勤になって、初めて奈良県丹波市町(現在の天理市)で元旦を迎える。家族揃って本年も無事で過ごせるように念じながら、僅かばかりの配給酒で祝杯をあげる。
天理工場は14日から始業し、軍需用乾電池の生産に追われて随分と忙しい毎日だった。

19日、当直で工場に居残りしていると、妻から電話で、よもやと思った召集令状が遂に来た。115日、東京世田谷の東部13部隊に入隊すべし」と本籍地、山梨県飯富村役場(中富町)から電報連絡、これは絶対命令で、どうすることも出来ない。

身辺整理だけを済ませ、自宅の整理は後日再び、妻が出直すことにして、2歳の洋治を伴って、本籍地の飯富へ還ることにした。

兵舎内は新兵と違って、みんな軍隊経験者ばかりだったので、気楽に過ごす事は出来た。

輸送船の関係か、戦況の変化か、戦地への出発はのびのびになって、何回か親族との面会が許されたが、軍機密で何時どこへ行くのかは全然知らされず、出動を待ちつつ四月は過ぎた。5月早々に突然、夜行の軍用列車で品川駅から下関へ移動し、輸送船まちで民家に分宿して世話になる。

既に戦争状況はアメリカ軍に抑えられぎみで、余り芳しくない。噂では日本近海まで敵潜水艦が出没しているので、どうなるか、など密かに話しながら待機すること2泊。突然、夜中に乗船命令が出て、輸送船・建和丸(貨物船)に乗り込む。船上には筏や救命用竹筒などが一杯積み込まれていた。船列編成のため沖合に出てみると、大輸送船団であり、護衛艦や空母らしい艦もついている。各船が一船づつ静かに出港する。

乗船した建和丸の船内は8坪位に仕切られ、その船底の小部屋に13名の軍装した兵が割り当てられた。横になって休める者は7名がやっとで、他の6名は廊下の空いた場所とか、甲板に空き場所を探して休むことになる。兵はみんなこんな状態だから、毎夜寝る場所探しに一苦労だ。

赤い木綿布2メートル程のものと勝鰹節1本を組みにして網袋に入れ、軍装した上着の胸もとにつけている。これは船がやられたとき、海中での鱶除けと、海水でふやけた鰹節を食糧にと、殆どの兵が出発のときに家族から渡されたものである。

出港して2日目の夜となると気温が下がって寒さを感じるので、南方に向かうには変だと思っていると、敵潜水艦を警戒して朝鮮、仁川沖から、黄海、上海沖に出て航海しているとの事だった。黄色い海水でも確信できた。

台湾の西海岸を経て高雄港沖に停泊する。これから魔のバシー海峡と恐れられている海に入るので、船団は非常警戒体制に入り、同時に2船団に分かれ、一船団は東海岸を進んでいるとの噂。下船することもなく数時間後には出港した。船団も6隻位になっていた。

このバシー海峡では既に相当数の輸送船団が敵の潜水艦に沈められた海だけに、気持ちも随分と緊張し、不安もあったが、船内ではどうすることも出来なく、ただ、甲板で海を眺めている。甲板には飲料用水槽があって、2人の兵が水番として監視していた。

たまたま、その中の一人が中学校で同級の渡辺君だった。彼は満州から南方行きとなって、下関から乗り込んだとの事だった。未だ新兵だった彼は船内でも勤務につけられ、配給品とか甘味品など随分と不自由との事だった。持っている物は都合のつく範囲内で彼に与え、旧交を温めたが、同じ船におりながら、勤務中の兵と話も出来ず、この時が最初で、終戦後まで会う機会はなかった。

父の「戦争備忘録」−3

夜に入り、船団は灯火管制で暗い闇を僅か7ノットの速度で穏やかな波間をジグザグに進んでいる。緊張した気持ちだったが、何事もなく朝を迎え、美しいマニラ湾を眼前に見たときは、ほっとした気分になり、先ずは兵の勤めの朝食準備にかかった。その矢先、海上千メートル程の前方で護衛艦が敵潜水艦のから魚雷襲撃を受け、あっという間に沈没して行く。白服の水兵が海に飛び込む姿が目に焼き付いている。

輸送船はそんなことには全く関係がないのかの如く、マニラ湾の港へ静かに進んで行く。海の戦争とは陸軍にとっては、どうにもならない。ただ、観戦者として見守るだけだ。

暑さで汗にまみれた体をシャワーで洗うため、始めて一時間だけ下船を許された。猛暑で身体が焼けるような厳しさの中での、この一息は気持ちを爽やかにしてくれた。

マニラは綺麗な街で、立派なビルが湾岸に建ち並び、平和で戦争など全く関係がないように感じられた。此処で上陸できたら有難いと、誰もが羨ましがった。しかし、若し、その時、フィリピンに駐屯する部隊だったら、命は無かった。運とはこんなもので、先の事は全然わからない。

しかし、その時は、再び輸送船で南へ南へと航海を続けねばならないと思うと憂鬱になった。停船は約10時間位で建和丸は出航し、フィリピン群島の美しい風景を両舷に見ながらセブ港に入った。

セブ島はフィリピン群島の中程にあって、昔スペインが構築した城壁が港近くまで続き、古い都という感じだった。このセブ島も僅かな停泊で、また、南へ運河のような水路と緑の島々を両岸に見ながら進んだ。

もうこの辺りは敵地でもあるかのように、船団が通過するごとに島から煙が昇り、敵の連絡信号のようで不気味である。幸い何事もなくフィリピン群島を通過し、南端のミンダナオ島から海峡に入る。今晩一夜を過ごせば明日はハルマヘラ島に入港できる。しかし、戦況が悪いので、ニューギニアへ直行は出来ない。一旦はハルマヘラ島に上陸すると知らされた。

支那事変から日中戦争を振り返り、何のための従軍だったか、全く自分でも納得できない。復員後は早々に結婚し、会社に復帰し、東京出張所の営業に着任する。昭和16年8月、大阪工場に転勤し、工場経営を担当する。

暑い雑魚寝の長い航海もいよいよ明日までで終わると想うと気持ちは安堵のような落ち着いた気分になる。しかし、水域としては最も危険である。何時でも海中に飛び込める準備をして甲板に腰を下して休んでいた。

闇夜のなか厳重な灯火管制をした船団は敵に発見されないよう、静かにしずかに進んでいる。突然、左舷を唸りながら波間を大きな魚雷が船と並行して飛んでゆく。ヒヤットした途端に横に並んで進んでいる僚船が魚雷の命中を受け、闇の夜空に火煙があがり、灯火管制した船団が海上にぱっと浮かび上がり、必死になって魚雷攻撃を避けつつ航行する。僚船の火煙はますます激しく、海上は火の海になって燃えさかっている。暫くすると、ポーポーポーと火煙に包まれた僚船から汽笛が聞こえてくる。「この船にかまわず逃げてくれ」との合図である。

唯々、右往左往してこの海面を避けることが精一杯の様だった。このような状況では誰も眠るどころか眼を皿のようにして暗い海上を眺め、早く夜の明けるのを待っている。

(妻・てい子と長男・洋治)

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(赤がハルマヘラ島)

故郷に帰ると、応召軍人として部落の人達のお祝いの挨拶を受けるやら、また、氏神さまの社前での壮行会など、村としての行事に参加し、村境まで部落の人達の見送りを受けて出征の途に就く。内心、既往症として昭和177月に肺炎の大病を患ったので、恐らく入隊検査で不合格になり、即日、帰郷になるのではないか、と人には言えないが、密かに思っていた。

115日早朝、親族ともども、世田谷三宿の指定された部隊兵舎に向かう。もうこの時分は兵力が不足していたのか、身体検査は形式的で、軍医が裸になった応召者の体を眺めるだけで、紫色のゴム印を腹に押し、売り肉なみの扱いで、馬繋場の柵の中に入れられて待機を指示される。一定人員になると下士官が引率して兵舎に入れられる。
見送りに来た人たちはあっけにとられるような雰囲気だった。これで生死も判らぬ別れとなるかと、自分も家族も割り切れない気持ちだ。

(昭和16年 荒地で結婚記念写真)