父の「戦争備忘録」−2

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(上海陸軍病院にて)

(支那事変の最初の写真・前列右端が父)                  (輸送部隊に配属された父)

輸送途中の兵は割り当てられた壊れた煉瓦の家を宿舎として泊まった。僅か一泊だったが、引率されて二、三ヶ所を歩いて見た光景は、中国人が異様な眼で日本軍を眺めており、緊張の連続だった。貧しい中国人の生活と、崩壊した建物の瓦礫を見ただけだった。

再び乗船して揚子江を更に遡り武漢に到着する。揚子江の川幅は狭い処もあり、敵が連絡に使うのか、船が通過すると、岸から狼煙の様な煙が上がり、馴れぬ新兵には何時砲撃されるのかと不安な気がした。

武昌からトラックの荷台に乗せられ、泥濘の悪路を120キロ程走り、駐屯地、鉄山舗に到着した。

20名の補充兵は早速配属分隊が決められ、ぼくは戦友井上と共に桜田分隊に配属となる。分隊は下士官2名、ぼく達2人を入れ隊長以下6名、貨物自動車5輌。運転に全く自信がなくとも一台は持たねばならない。これからは軍行動の一兵として任務に就くのである。戦場の軍人魂を鍛えるとかで、1ヶ月は戦闘訓練、兵舎内にて分隊長以下古参兵の世話をさせられる。

兵舎は民家をそのまま使用しているので、屋根は弾痕で穴があき、夜じゅう冷え切った床の中から煌々とした月を眺めるときなど、日本の想い出や、これからの戦のことなどを考えて気の滅入ることもあった。土間の上にはばらばらの板を敷き、莚の寝床で毛布にくるまって寝る。中支の寒さは厳しく眠れるものではないが、疲れと馴れでやがて休養がとれるようになった。しかし、敵地だけに絶えず警戒する気は怠りなかった。

いよいよ現地訓練も終了し、ぼろぼろの徴用トラックを与えられ軍行動に参加する。殆どの兵は運転経験者であったが、ぼくなど延べ2時間ぐらいの実地訓練をしただけで、軍の行動に単独で入っていくのは何とも言えない決死の気持ちだった。時折、幼稚な事故を起こしたが精神力で馴れていった。

昭和15年4月、移動命令を受け、漢口に駐屯する。そこで、兵站の物資輸送を4ヶ月程やり、また、黄波に移動。宣昌作戦に参加するためだった。

昭和15年8月は厳しい暑さだが、任務は黄波から第一線への物資輸送で野営しながら奥地に移動する。敵地の中で危険な毎日だったが、荊門まで無事に任務を果たした。その帰路に激しい下痢を起こし、応城までの引き返しに堪えられず、遂に野戦病院に収容される。

入院は名ばかりで、土間に寝かされ治療など受けることは出来ない。一定数になるとトラックで護送された。漢口の陸軍病院で診断の結果、アメーバ赤痢と栄養失調症と宣告され、隔離病棟に収容された。ここは重患者ばかり10名程の病室で、毎日2人は確実に死亡する。死ねばすぐにまた重患が入ってくる。

ぼくの病状も生死の境を彷徨うひどいもので、あの世行きの重患に入っていた。枕元に屍衛兵が交替で立ち、もう今夜で終わりかと覚悟をしたが、幸い持ち堪えた。

生きる見込みがあると注射も薬も使ってくれるので、急速に元気づいた。数週間たち下痢も止まり、一人歩き出来るようになると、すぐに、上海陸軍病院に船で護送され、1ヶ月程の療養後、病院船で宇品へ、宇品から金沢の病院へ送られた。完全に治癒したので、昭和16年1月8日、東京世田谷陸軍自動車隊に復員し、1月10日に召集解除となった。

(昭和15年元旦の衛兵勤務に際して)                     (自動車隊の渡河)