8月10日、全く突然に召集令状を受け取り、8月14日には東京都世田谷区の陸軍自動車隊に入隊する。年齢は28歳だった。 

 厭な軍隊も招集では絶対に避けられない。炎天下の厳しい訓練や、兵舎内の夜は根性を付けると称し、鉄拳制裁。年下の現役兵にしごかれ、所属した内務班だけでなく、隣の班からも毎夜激しいビンタの音。悔しいがどうすることも出来ない。要領の悪い新兵を苛めるのを楽しみにしている程度の低い古年兵がどの班にも数人いる。踵のついた靴の底を「はがしたスリッパ」で思い切り殴られるから、たまったものではない。制裁を受ける新兵の顔が変形する位やられ、紫色の痣が残る。平常、馴れない食事・洗濯から身の回り一切の世話までやって、その上の制裁だから、気の弱い新兵は逃げ出したくなる。この地獄のような苦痛かに耐えられなく遁走し、自殺までする事件もあった。

 この当時の軍の威力は絶対であった。報道も軍に不利益なことは一切発表しなかった。

 どうでもよいからこの。苦痛から脱出して戦地に行きたい。戦線では危険はあるが、内地の何もならない地獄より少しは楽になるだろうと思っていた。1ヶ月が1年位の感じだった。訓練期間の3ヶ月が経って、検問が終わると、ほんの一部を除き戦地への出動命令が下る。

 新品の軍装品が渡されて11月の初冬の夜、行軍で品川駅へ向かう。防諜の関係からか、列車の窓は日除けの鎧戸まで下し、東海道線で下関まで乗車する。途中、どのような連絡があったのか、翌朝、大阪駅と神戸駅で多数の会社仲間からの激励を受けるが、己に諦めの心境だったせいか、気持ちは落ち着いていた。

 下関港から輸送船で上海に上陸する。激戦の跡らしく建物は殆ど壊され、バラックが立ち並び、輸送部隊の兵舎になっていたので、此処に泊まる。初めての敵地であり、我々のように上陸した補充兵と、既に戦争を体験し、疲れ切って日本に帰還する軍隊でごった返していた。流行歌「上海ブルース」に唄われた有名なガーデンブリッジも見るかげもなく、古びた殺風景なものだった。2日後にまた乗船して、揚子江を遡行して南京に上陸。南京は当時中国の首都で、この攻略には頑強に抵抗した中国軍に対して日本軍は総攻撃で攻略したために、街は見る影もない瓦礫の山だった。

*日中戦争の思い出

 昭和14年6月、朝日乾電池名古屋工場に転勤を命じられた。当時ぼくは、営業担当者として、近畿地区を中心に代理店廻りをしており、大阪の商売の厳しさを味わいながら修業の毎日だった。

 販売の難しさはいつになっても自分に得心出来ない。この時分、ぼく達の仲間では商売のやり方を、東京は若旦那、大阪は番頭、名古屋は丁稚だと、そのように区分けしていた。

 東京では人見知りとか、感情を優先するので、馴れると商売はすごく気楽に進められるが、これまでが大変だ。時が解決してくれるまで待つ。

 大阪では飽くまでも算盤である。取っ付きは愛想も良く、相手にもなってくれるが、採算が納得しなければ、絶対取引はしてくれない。非常に難しい市場だ。

 名古屋は算盤も大切だが、細かいことに神経を遣うことによって信頼が得られるので、それ相応の仕方を特に留意する市場だった。

この丁稚市場の名古屋で営業一切を任される重要な任務についたので、希望と不安な気持ちで赴任した。

 当時、工場長は温厚な立派な紳士で、営業については総てを任されたので、その使命の重大さに燃えていた。早速、市場を把握しなければと中部全域の挨拶回りから始め、やっと市場認識を得た。

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(出征に際して、両親・父、荒次郎と母、もと、義兄、宇吉と)

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父の「戦争備忘録」−1

2016年8月、父、麻義が書き記した「戦争備忘録」を読み直しました。私もこれを記した父の年齢になって、改めて、時代、世代の大きな違いを感じました。

この一年で、幾つかの戦争体験記を読む機会がありました。これらの体験記はいずれも将校や士官として過ごされた方々ばかりの著述でした。ですから、可なりの戦局の情報を知り得る立場としての体験記でした。

@海軍士官の松浦光利氏の『自分史』:驚いたことに、父がハルマヘラ島へ乗船していた輸送船団に2か月前前まで士官として所属されていた事が記されている。

A本田功の聖戦句集『陣火』:満州の部隊長として昭和164月から184月までの俳句集

B池辺良の『ハルマヘラ・メモリー』:これは生前に父が購入した本。有名俳優も幹部候補生からの少尉として、同時期に同島で苦労した。魚雷による輸送船沈没で海に投げ出された。

ところが、山梨県身延で三男として生を受けた父は応召兵のとして二等兵からのスタートで、兵卒として情報は殆ど知らされず、不安の中に身を委ねる他は無かった事が読み取れます。正に、戦争に振り回されたのでしょう。しかも、赤紙を二回も受け取る不運で、生きて帰れたとはいえ、失なわれた時間が、父にとってはとても大きく、これを書き残したかった気持ちが分かるような気がしました。大局感の乏しい記述ですが、そこには、何も分からぬままに、赤紙で戦場へ送られた一兵卒としての父の無念のようなものを感じ取りました。

父の古いアルバムには、支那事変の従軍の写真が結構ありましたが、ハルマヘラ島での写真は全くありませんでした。これをどの様に読み取るか、生前に訊いておけばと残念に思っています。

手書き原本の表紙

*まえがき

 ぼくの人生とは己に決められた運命を以って出てきたような気がする。自分でこの道を歩きたいと思ったことは殆ど叶えられず、唯ただ、自然にまかせて今日まで来たようだ。

 或るときは、山村育ちのせいだったのか、海に憧れ船乗りを望んだり、時代を反映して職業軍人になろうとしたが、総て淡い夢だった。時の流れに従って、自分の力に相応した泳ぎ方をして来た。

もし、ぼくが憧れた道を強引に進んだなら己に生存は無く、早ばやと人生の終焉を迎えてこの世から消えている。

 幸い生きながらえたので、長い過去の四方山の出来事を、記憶が失われないうちに、思い出として、断片的ではあるが書き綴った。

このような戦争が二度と起こらぬ様に、その悲惨さと無念さを伝えられたらと、ここに紹介します。