<両親の来タンザニアーT>

タンザニア滞在中のハイライトのひとつは、我々夫婦の両親が四人して連れ立ってはるばるタンザニアまでやってきた事だ。その時1977年の父の年齢に、2007年の今の自分がいる。

アフリカ向けのツアーなど無い中で、高い飛行機代を払って、親たちの冒険を思い出しながら記録しておくのも、意味があるだろう。

長時間の南回り、今は無いBOAC機で、香港、セイロン、セイシェルを経由してアフリカはケニア・ナイロビ空港へ夜中に到着した。私はタンザニア・ダルエスからナイロビへ出向き、空港で出迎える事とした。

この便は翌朝にロンドン着を目指すために、ナイロビは夜中に到着となる。この時間帯ではローカルの東アフリカ航空の離陸が無いので、空港は閑散としている。

私は3階建ての空港ビルの屋上で到着を待っていた。やがてVC10の機体が轟音をたてながら着陸し、タラップからここで降りる十数人の中に、それらしき4人を暗い中に見つけた。空港ビルへ入る通路の上から「いらっしゃ〜い」と大声を掛けたら、薄暗い中でもこれは親達には良く聞こえたようで、こころ強かったらしい。

空港ビルの中で、通関の手間が思いのほか時間がかかる。子や孫たちへの土産などで、税関の役人に引っ掛かっているのだ。他の客は全て終っても、中で鞄を開けさせられているのが、ガラス越しで見える。この頃のこの空港には、賄賂を狙ったこうした嫌がらせが多いのは承知していたが、親達はそんな事は分からない。

出迎えは税関の中には入れないのが原則だが、ドアの役人に10シル握らせて通関検査員と折衝を始めた。50シルと孫への土産のおもちゃをひとつ渡して解放してもらう。全く致し方ないと親達に説明しながら、荷物を車へ移動していると、襟章をつけた大きな体躯の役人に呼び止められる。何かと思えば、「賄賂を渡しているのを目撃した。見逃すから200シルよこせ」と云われる。「全く、こいつら!」と思っても、いたし方なし。100シルにまけてもらって車に乗り込んだ。役人の給料は低いので、この国では役得を狙ったこんな手合いの役人が多い。真っ暗な道を空港から街のホテルまで車で行く。チェックインは問題なく、部屋に入ってみなでやれやれと改めて再会の挨拶をする。因みに当時の1シルは固定相場で50円だった。

翌日は朝からナイロビ・サファリパークへ行く。ナイロビ郊外に広がるパークで手じかに楽しめるサファリとして人気が高い。しまうまやガゼル、象やライオンもなどが遠望できる。この日、大きなワニを近くで見たが、長旅の疲れもあるので、早めに切り上げて、ホテルに戻る。

翌朝、モンバサ経由ダルエスサラームへの便でようやく目的のわが家に到着した。予め、自宅から車で5分位にある国営キリマンジャロ・ホテルの一部屋を予約して、滞在中の二夫婦の親達は交互にこのホテルと我々の自宅とに泊まり、食事はわが家で一緒にすることとした。

この来宅は、親たちと我々の家族の誰にとって生涯に亘って忘れ得ない思い出になった。

準備してあった伊勢海老や鯛など地元の魚介類の刺身などで久々の歓談が花を咲かせた。古い醤油も致し方ないが、それも思い出話の一つになるらしい。

初孫とタンザニア生まれの孫に会うのだから、嬉しい限りだと思う。子守のジャミラも感激してくれ、自分の孫を見せに来てくれた。
ジャミラは未だ30代、早婚の家族なのだ。

我々の生活を見てもらうために、時間の許す限り、近くを車で案内した。
使わなかった有給を利用して時間を作ることに会社も快く認めてくれた。

近くの珊瑚礁のオイスターベイでの磯遊びや、道沿いのマコンデ彫刻の小屋、漁師が集まるバンダビーチの魚市場などへ行き我々の日常生活を見てもらうようにした。

ダルエスサラームから5時間ほど舗装された国道と米国の援助で建設途中のタンザンハイウェーを継いで走る。そこでの一泊二日のミクミ・パークへのサファリではさまざま動物と会えることが出来た。

ロッジの部屋の窓から湖沼へ水を求めてやってくるライオン、象、バッファロー、ガゼルやシマウマなどが見える。

公園内は四輪駆動車でガイド兼ドライバーの説明を聞きながら、近くで野生の動物を観察できる。

他のタンザニアのサファリに比べて、比較的小さい面積だが、動物の密度は多い。禿げ鷲の群れと河馬の欠伸の写真はここでしか撮れなかった。

<クンズチ・ビーチにて>

<ジャミラの孫と>

<伊勢海老と三人>

<ミクミ公園内>


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