中国人医師

タンザニアで生活した七十年代の五年間に、腰痛に苦しんだ時があった。腰を曲げられないために、座る事も出来なかった。思案の揚げ句、中国の駐屯地の医師を訪ねた。

当時、中国は十万とも十五万とも云われた工夫をタンザニアへ駐屯させて、内陸のザンビアへのタンザン鉄道の敷設を行っていた。トラックが人民服の中国人工夫を満載して、駐屯地から工事現場へ土煙を上げて走って行くのをよく目にした。この時期、未だ日中国交は回復しておらず、彼らとの接触は無く、ましては、この駐屯地に入り込む事はとても常識的ではなかった。

しかし、この腰痛に耐え難く、彼らが敷設した線路を越えて駐屯地の医師を訪ねた。

囲われた土地の椰子林の中に、粗末な鶏舎のような長屋がいくつも並んで建っていた。工夫達の宿泊している建物だ。そして、その敷地の一隅にコンクリート建ての質素な平屋が診療所だった。

門衛にどのように話した忘れたが、苦痛に歪んだ私の顔に同情したのか、診療所へ導いてくれた。ここで、医師団の心のこもった治療を毎日のように三ヶ月間に亘って受け、完治した。

巨大なレントゲンの設備、高電圧治療器、甲から手のひらに抜ける強烈に痛い鍼、シャレーの沸騰液で消毒して何度も使う注射針、そして、真摯な医師と看護婦の姿を今でのはっきりと記憶している。

治療代の支払いを申し出た時、彼らはその受け取りを断った。何度も、何度も断った。ラジオなどの物による別な形でのお礼も断った。

下手なスワヒリ語と中国語の筆談での会話はまどろっこしい限りだが、「大勢の仲間とこのタンザニアへ派遣され、たまたま、仕事上、あなたを治療できる立場にあるからと言って、われわれ医師団だけが受け取る事は出来ない」の一徹であった。

最後の治療日にも、その場はただ「謝謝」で去る他はなかった。

春節の日に、一生懸命に新年の挨拶と完治した喜びを漢文的に紙に書き、それを年賀状として、それだけを持って、駐屯地を再訪した。

医師はそれを見るや、他の医師仲間や看護婦へも声を掛け、その賀状を廻しあって大喜びをしてくれた。これは私にとってもとても嬉しかった。字を直してくれる人もいた。そして、いっときして、皆さんと握手・抱擁して別れた。

彼らが派遣されたのは文化大革命の直後であり、日本人と接する事は政治的に危険であった筈だ。

今でも心から感謝していると共に、その後、何度かの訪中の際には、いつもこの時の事を思い出す。唯、この話を中国での宴席などで話しても、何故か話をはぐらかされているように思われる。触れてはならない事柄なのか、単に興味が無いのか、疑問だ。

当時、時たま、中国人工夫達と街中で会うことがあった。
彼らは殆ど集団で歩き、同じような人民服を着て、決して我々には街で話すことはなかった。彼らに対して、現地の子供達が「ニーハオ」と呼びかけていたが、同じ顔の我々日本人に対しても同じ呼びかけをし、最初は「日本」と聞こえていた。

ある日、数人の中国人が珊瑚礁のオイスターベイの浜辺で海鼠採っているのを見た。街以外の場所では、これ以外に彼らを見かけたことは無い。
皆、食材としての海鼠に一生懸命だった。

これに関連する俳句はサファリに収蔵しました。


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