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エッセイ:オイルショックと食料増産

1976年からのオイルショックの年はタンザニアの外貨の逼迫は極まった。
このため、いくつかの政府施策が採られた。直接的に石油輸入を少なくするために、車への規制が始まった。

タンザニアの登録車の数量だが、私の車(マークU)のプレート番号が「TZ14171」で、これが通し番号である。すなわち、1972年の購入時には、公用車や軍用車を除いて、14171台の車しか登録していないのである。

道路の信号も首都のダルエスサラームに一基しかなかった。(但し、英国の統治下の影響でラウンダバードは首都には10ヵ所くらいあったと記憶している)長閑なものである。

このオイルショック時にはそれでも、最新車が「TZ40000」位だったので、車の台数は4万台位にまで増えていた。タンザニア全土での登録台数である。

その少ない車の週末の運転禁止、ガソリン販売禁止がなされた。公共の交通が殆ど使えないために、買い物や遊びはもとより、工場へも行けず、自宅でじっとしているしかなかった。週末の街は静かなものである。

今ひとつの施策は、食料増産である。貴重な外貨は食料の輸入にも使われる。

現地の主な主食はタロイモ、米、とうもろこし等であったが、国全体の食料を増産させなければ賄いきれない状況だった。企業や商店、役所などをそれぞれのグループ単位に区分けて、その各々の構成人数に比例して、未開墾地を国が授け、そこを開墾して、農作物を作らなければならない。

我々は3キロほど工場から離れた所の荒地を三万坪ほど割り当てられた。

そこを、自ら開墾して米を作れと言う。種は国から供給され、また、収穫物は国が買い上げてくれる。

電器会社へ入社して、農業に携わるとは稀なる経験であった。トラクターも手に入れて、開墾して灌漑も進めて畑を作り、三年目に米300キロの収穫だった。既に私は帰任した後だった。

収獲までの期間は直ぐに収穫できる、スイカなどの畑を作って楽しんだ。ところが、人も好きなら、猿も好きで、このスイカ畑に野猿集団がスイカを盗みに来る。更にその野猿を好物であるライオンも出現した。畑を走り、スイカだけでなく、陸稲も荒らす。鉄砲を持たせて、アスカリ(スワヒリ語で兵隊)を配備して、それらの近づくのを防いだ。

貧しい国として、精一杯の施策だったと、個人的に私は評価している。

余計な話だが、海外進出企業が農業をすると言う珍しさに、日本のテレビ局が取材に来た。(忘れたが、多分、朝日放送)取材班を案内して農業現場へ連れて行った様子が、放映されたと、後日、実家から手紙があった。

<私のマークU:マニヤラ湖のレンジャーと>

<開墾中のトラクター>