宿は天童市に取った。この旅館は将棋の名人戦の会場にもなる老舗とか、天童は将棋駒の産地でもある。市の鶴舞山の天道公園では桜の季節には「人間将棋」が観光の目玉イベントと言う。翌朝訪ねた山頂の公園からは市が一望できたが、桜は未だ蕾が固い。大山康晴名人揮毫の巨大な王将駒が人間将棋の盤面となる広場を睨むように建てられている。

車で蔵王へ向かい、ロープウェイで一気に山頂に登り、予想外だったが素晴らしい樹氷を見ることが出来た。土地の人は4月にこれだけ樹氷が見えるのは珍しいと話していた。

「波」の山形支部の句会に参加させて頂き、楽しい時間を過ごした。句会後の歓談も庄司りつこさんを中心に良くまとまった会だと感じて、2泊目も天童に戻った。車は便利だ。

3日目はかつて山形県庁の建物だった文翔館を見学した。、大正5年に建てられた英国近世復興様式のレンガ造りの建物で、大正初期の洋風建築を代表する貴重な遺構として、昭和59年、国の重要文化財に指定された。大正の古き良き時代の薫りを今に伝えている。

3日間ではあったが、句会も含めて楽しい旅だった。

天童公園の王将碑

立石寺にて<地獄谷(修行場)・納経堂・岩塔婆>

句集『縞馬』:日本のサファリ<2017年(平成29年)−3

左馬の駒彫る男春マスク 



芽吹き山統べる王将碑の高し 



白サイも白象もいる樹氷原 



春スキー首まで埋まる地蔵尊 



春ショール佳人の好む草木染

4月初めに山形県を訪ねた。山形新幹線で山形へ、そこからレンタカーで周辺を巡った。

先ずは芭蕉の名句<閑さや巌にしみ入る蝉の声>を詠んだ山寺、立石寺へ向かった。寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。峻厳な山に幾つもの堂が建ち、修行の洞もあり、かつての容姿を残している。「おくのほそ道」を旅した芭蕉と曾良の像を見て、奥の院の如法堂へ上った。途中には眺望の良い五大堂などあって、急峻な1050段の石段も飽きさせない。いたる処に亡くなった人の戒名を書いた後生車や卒塔婆がたてられ、岩壁には刻まれた岩塔婆、墓碑など至る処に納められている。このような習慣は「死後の魂は山寺に還る」と云うこの地方独特の庶民信仰なのだとか、土地に根付いたお寺なのだろう。

大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、天文12年(1543年)最上義守の再建の際、再度分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。

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樹氷の風景

雪解けのながれは絶えず立石寺 



懸崖の修験の窟や雪垂る 



岩塔婆の文字の掠れや木の芽風 



弥陀洞へ還る魂たち草青む