小笠原クルーズの6日間:2025年12月4日~9日
<横浜~小笠原(父島)~横浜>
クルーズ船、「にっぽん丸」は大型クルーズ船とは異なり、乗客数も数百人で、乗船と下船への流れは比較的スムース。加えて乗客の殆どは日本人で、食事(朝・昼・晩・夜食)は我々の口に合う為に人気の高く、予約は早々と満席になると云う。このクルーズは「にっぽん丸」の小笠原島への最終周航と云う。今回は横浜のOさん、Sさんご夫妻と一緒に3キャビンが確保できた。
12月4日の15時過ぎに横浜港の横浜ハンマーヘッド(横浜港 新港ふ頭客船ターミナル)へ入り、車椅子の人などから順次に乗船開始して、我々の時間は16時20分となった。
その後、17時の出港に合わせて4階の甲板に出れば、先ずは避難訓練との事で、救命具などの身につける方法を教えられる。その後は、タグボートに押されて徐々に岸壁を離れる様子を眺める事が出来る。既に専属のジャズマンが威勢よく音楽を弾けさせていた。一方、岸壁埠頭では数人が手を振るだけの実に軽い感じ。以前の「ぱしふっくびいなす号」が苫小牧を出航した時のように船からの派手なテープ投げや埠頭の祭り太鼓の見送りは無い。
出航して早速に夕食を楽しむ。6人のテーブルを囲み、クルーズ船業界では最高の美味と云われるのも納得の味だった。夕食の後は、この船のハウスバンド(A★P★P☆)のコンサートを楽しみ、更に、三遊亭圓丸師匠の落語で笑った。10時以降の以降の映画などもあったが、部屋に戻って就寝とした。

陸の灯も果て外洋や冬満月
2日目は2日目は一日中、海上にあって、船内では様々なプログラムが用意されている。朝食は和洋食が選べる仕組みで、和食の雑炊を選んで、家内は洋食を選んだ。その後、講義があって、森拓也氏の小笠原島に関する講演で、生き物の宝庫と云われる小笠原諸島の動物の解説、氏は長年に亘って水族館に勤められた由、小笠原諸島へは何度も訪問されていた様だ。鯨のウォッチングはこれからだと解説されて些か残念だった。昼食後は映画「老後の資金がありません!」を鑑賞した。十分な時間潰しにはなった。
この日は風が強く船内でも揺れを感じる。デッキに出れば可なりの烈風で、船体にぶつかる波の弾けと、その飛沫が顔にも触れるほどだ。広々と四囲に太平洋の水平線を眺めれば、雨雲の覆う海域もあれば、日の差している海域もあり、海と空の荒れ模様が眼前に広がる。
そんな中、14時頃には鳥島近くを速度を落して通過した。風の強い中を暫くは甲板から眺め、スピーカーからの島の解説を聞いていた。鳥島は直径約2.7kmの概ね円形の火山島で、東京の約600km南に位置している。火山帯の線上にあり、活発な火山活動が過去に何度もあり、明治35年の噴火では島民125名全員が死亡した。今は無人島だ。
多くの船がこの島に漂着している。たとえば土佐国の船乗りの長平はアホウドリで食いつないで12年間生活し、後から漂着した者達と一緒に船を造って青ヶ島に脱出した。また、ジョン万次郎ら5人が漂着したのも鳥島であるが、彼らは約5ヶ月後にアメリカの捕鯨船に救助されている。水の乏しさは筆舌に難く、貝殻に僅かな雨水を貯めて凌いだと云う。
その後の文久3年に万次郎らが「一番丸」で父島から捕鯨に出漁した際、鳥島に上陸して領有を示す高札を建てたと云われる。
一方、羽毛目当ての乱獲で絶滅危惧にもなっているアホウドリ(天然記念物)の営巣地として貴重な島でもあり、今は鳥類研究所を中心に絶滅危惧種からの脱却を目指している。募金を求めるパンフレットによれば、1949年の調査では「絶滅した可能性が高い」と報告された。しかし、1951年にここ鳥島で約10羽が再発見されてから、関係者のたゆまぬ保全活動によって、2025年には9500羽以上まで回復。絶滅危惧種からの脱却まであと一歩まできている。
更に南下して暮れかかる16時過ぎには、孀婦岩が遥か水平線に屹立しているのが見えた。その先の黒い雲と水平線の隙間へ太陽が沈んでゆく。標高は約100mの黒色の孤立突岩で山体の大部分は海面下にあり、水面下は2,000m深さと云われている。
この日は17時30分から就寝までのドレスコードは「セミフォーマル」となっている。このためのシャツやネクタイ、ブレザー、更には、黒靴に着替えてカクテルパーティーに参加する。ホールの入口で出迎える船長など船の幹部の方々へ軽く挨拶をして会場に入った。椅子席に着けば、色鮮やかなカクテルなどを供せられた。しばらくしてホールの舞台から、船長はじめとして幹部達の挨拶があった。その後はその舞台で「大萩康司With フレンズDAY1」の演奏を楽しむ。その演奏は見事だった。
その後は場を変えて三遊亭圓丸師匠の高座を楽しんだ。
冬虹のなかば立ちたる水平線
水鳥やジョン万ゆかりの無人島
音かるきピアノは白し冬の航
3日目の朝には船は父島の二見港沖に停泊した。上陸は母船から通船で10分ほどだ。十数隻の地元の漁船がその任に当たっている。外来種の上陸を防ぐために、岸壁の下船場で直ぐに靴底の洗い場がある。父島の自然保護のために必要なのだろう。また、「本土にはいない害虫が、ここ小笠原諸島には発生しているため、土付きの苗などは植物検疫が求められる」との事、本土への防疫にも神経質のようだ。
島内に入り、下船場の先の大神山神社を目指した。結構な石段を上り、朱色の社に参拝した。その由緒によれば、<文禄二年(1593年)小笠原貞頼公が小笠原諸島発見の折、父島に「大日本天照皇大神の地」と奉記した標識を建てたと伝えられている。>と記されている。<その後、江戸幕府の命により守護神社を創建した。更に明治になって、国際的にも日本の領土として認められ、日本人移民が島に定着し、更に現在の場所に神殿が築造され、大神山神社と称されるようになった。><太平洋戦争時には戦場になるを想定して島民の強制疎開の実施、その後、敗戦後のアメリカ軍政下には祭神は府中市に遷座された>そして、<昭和43年に日本に返還され、この神社が建てられ、祭神が戻った>とある。神社には土俵もあり例大祭の催事に一つになっている。高台の神社からは二見湾に停泊している「にっぽん丸」が見える。
午後は小笠原歴史ツアーを予め予約しておいた。それまでの時間、「島すし」で少し早めの昼食を摂った。目当ては海亀の握り、醬油漬けで美味しかったと言うより珍しさが勝った味だった。人気があるのか、我々が店を出るころには20人ほど席が満席になっていた。

通船乗り場のモニュメント 大神山神社
船倉は寒し刺す又防刺服
ガジュマルの落ち葉踏みしめ島詣
疎開せし神を迎えし朱殿かな 海亀の握り鮨とや島小春
最初は森の中の咸臨丸墓地だった。咸臨丸関連だけでなく、17~18世紀に江戸幕府から派遣された役人や漂流して亡くなった墓もある。墓地の横には<咸臨丸が幕命によって1861年この島を訪れた時には居住者は欧米人ばかりで、彼らと話し合い、日本に所属する事や、島の開拓を進めることに了承を得た>と記されている。
次に夜明山の戦争遺跡を見る。太平洋戦争の本土防衛の最前線として陸海軍の高射砲や監視所が置かれた。米軍の激しい空襲に晒されたが、この島での地上戦はなかった。終戦後はそのまま放置されている。見たのはコンクリ建ての廃墟とトーチカだけだったが、他にも多くの戦争遺跡があり、それだけの一日ツアーもあると言う。
有明山の道路脇にある二宮金次郎像は首無しで近くの茂みの中にあった。元々尋常小学校あったこの像は戦時中に住民が本土に強制送還されている間はこの夜明山に移設され、小笠原が日本に返還されたときはすでに首がなかったのだそう。米軍が持って帰ったという説が有力だが、アメリカのどこかにあるのか、もう存在しないのかは闇の中との事。
先人の墓守る島や冬の森
冬ざるるトーチカ匿す雑木林
首の無い尊徳像の寒さかな
次いで小笠原返還運動を支えた国会議員の福田篤泰像を訪ねる。この「返還の父」の眼下には二見港を一望できるように建てられていたが、「樹木が成長して視界が狭くなってる」とガイドが強調していた。
最後に港近くの大神山公園を散策して、いくつかの島の歴史を聞く。
神社の小笠原神社の奥の無人島発見碑 返還に尽力した福田篤泰像 昭和天皇行幸碑
毛帽子の説く小笠原開拓史
冬ざれや無人社の錆びし鈴
小笠原の冬花赤し偉人像
ラドフォールスクール碑では、この学校の解説を聴く。アメリカ施政権下の小笠原諸島父島に設けられた義務教育課程の学校で、学習用語は英語で、軍人や欧米系島民の子弟が学んだ。復帰後は小笠原小中学校になった。また、昭和2年の昭和天皇行幸碑、平成天皇・皇后の行幸啓碑などを巡った。いずれも立派な石碑だった。昭和天皇行幸碑の下半分は戦渦で失われていたが、それは後日に作ったものだと云う。
小笠原歴史ツアーを終えて、充分に島での一日を堪能し、最終に近い通船で「にっぽん丸」へ戻る。通船では僅か10分程の時間でも救命具を付けての移動だった。
この日は三遊亭圓丸師匠の「芝浜」を聴く。得意の演目で名人芸を堪能した。
「にっぽん丸」には大浴場があり、この日はたっぷりと湯につかった。ゴルフ場の浴場を少し小型にしたような、寛げる時間でもあった。ティーを楽しめるスペースもあり、そこではいろいろと歌や講義などもあるので、暇を持て余すことは少ない。
冬トカゲ習う言葉もまた変わり
中折れの行幸記念碑落葉降る
冬凪や船の銭湯へスリッパで
4日目は嵐が来るとかで、船の出発が4時間早まり12時に早まった。父島に上陸しての時間は、観光とは云えないが、地元の村営バスの時刻表をみて、青灯台停留所から小港海岸往復を選んだ。
その前の僅かな時間だったが、小笠原世界遺産センターを見学する。外来種のグリーンアノール(緑色のトカゲ)の繁殖によって、特に島の昆虫の生態系が著しく損なわれているらしい。
村営バスの車窓から景色を見るだけだが、南国の景色を楽しんだ。確かに天候が不安定らしく、雨があったり強風が吹いたりして来ていた。最終便近い通船で母船に戻った。
そして、何隻もの通船が手を振って見送る中を「にっぽん丸」は帰りの航海へ出た。やがて低気圧は抜けたのか、暫くして晴れてきた。そして、船は時間調整も兼ねてか、父島諸島をゆっくりと巡ってくれた。いくつもの島々が重なるように、また連なるように見える。島の名前も家族の様だ。父島諸島には兄島、弟島があり、母島諸島には姉島、妹島、更に聟島群島には嫁島、媒(なこうど)島など・・そして、天候は良い方に向かっている。父島の南、円縁湾に面した断崖絶壁に、その形がハート型に見えるためにハートロックと呼ばれる千壽岩は赤い岩肌を露わにはっきりと見えた。めったに見ることが出来ないと船の乗務員が話していた。

父島諸島(上) と 父島のハートロック(千寿岩)
<1862年(文久元年) - 幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じアメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣し、測量を行う。一行が小笠原諸島を巡視した際作成した小笠原島視察復命書に「島々の配置は、南北に連なり、あたかも家族のように並んでいるので、中央を父島群島、南を母島群島とし、北を聟島群島とする。」と記載され、これが父島、母島、聟島の由来にもなった。また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得る。同年6月(文久2年5月)駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告。>との資料での解説を知った。
小笠原の島々を離れて、この日は終日に亘って水平線に囲まれた日となる。船内でコンサートや落語などを楽しむ。これらの芸能人とも気軽の会話を交わせる雰囲気で、三遊亭小遊三師匠の門下の三遊亭圓丸師匠とはしばらくの話をする機会があった。昨日の「芝浜」は良かったとの話から、二人で飲みながら話した。尤も師匠はジュースだったが・・クルーズ船の高座には時々上がるとか、ジンバブエからカナリー諸島へのクルーズ船にも高座に上がったとか、アフリカの話で大いに盛り上がった。高座へ上がる羽織までにも気を配っていると真打の気構えなど拝聴した。後日、横浜到着の翌日にはセブ島へ向かったと葉書があった。
群島は家族よ冬もあたたかよ
潮を吹く鯨を見んと甲板へ
冬凪やまわりぐるりと水平線
5日目の朝はすっかり晴れて波も静まった。孀婦岩付近へは7時頃に到着して、船はその周りをゆっくりと回った。かなり大きな海鳥が飛び回っているのが見え、その糞で孀婦岩の岩肌が白く見える。鳥はカツオドリかも知れない。朝の満月も見えてとても良い雰囲気だ。
鳥島へは10時過ぎに近づいた。出来るだけ鳥島の全貌を眺める様に、ゆっくりと船を進ませてくれた。島全体が赤茶けた状態で植生の淡い緑が見えるだけだ。海へ流れた溶岩流の痕や崩れた火口などが、壮絶な噴火だった事を語っている。アホウドリを研究するための小屋が並んで、その奥にアホウドリのデコイが微かに見える。双眼鏡を使っている人から借りて見たが、確かにそれらしき物だった。そんな中、突然に船内放送でアホウドリが海に群れているとの放送が流れ、デッキに飛び出して写真を撮った。十数羽の鳥が近づく船を避けて飛び立った。写真も撮ったが、識別は難しい。でも船内放送を信じ、アホウドリと信じる。
その後はひたすら北上し、洋上には何も見えない。ビンゴゲームなどもあったが、バンドや落語など楽しみながら過ごした。夕食後にデッキから八丈島の灯台と街の光りが眺められた。

孀婦岩 鳥島
水鳥の糞で化粧や孀婦岩 孀婦岩四方絶海の冬に屹つ(尚見)
航路とてゆるり飛び立つ信天翁
6日目の早朝は浦賀水道を通過して横浜へ入港した。
楽しい3夫妻での旅は終わった。食事は上質で概ね天気にも恵まれ良い船旅だった。
往きは荒れ帰路は冬凪く゚航路かな 冬うらら仲良し仲間と船に揺れ