2022年3月4日〜7日

定期航路の屋久島から奄美大島をチャーター機でひとっ飛びして、2島の世界遺産を巡るツアーに参加した。

@初日(羽田→鹿児島→屋久島巡り)

 羽田集合で先ずは鹿児島空港へ向かう。上空から眺められた景色は今までになく素晴らしく、
富士山だけでなく、地図を思いつつ列島を眺めた。
 
                 上空から富士山・知多半島・室戸岬・開聞岳
 


       雲上を航くや凛たる春の不二       列島や機窓の下に春景色


 鹿児島から屋久島へはプロペラ機で40分の飛行で予定通り12時10分に到着した。
ごつごつした山並を背にした小さな静かな空港だ。

 島は淡路島よりやや小さく円形に近い五角形を成している。この島は火山によるものではなく、花崗
岩が隆起した地層で出来たと云う。その後の激しい雨により浸蝕されて、花崗岩の塊が点在してる。
山頂付近にはローソクのような岩の塔も見える。地味は痩せているために、岩肌にしがみつく様に木
々がへばり付く。海岸から一気に高山となる地形で、垂直分布のひとつの典型として亜熱帯から亜寒
帯までの植物相が見られる。1900種以上の植物でこれは日本で見られる70%以上らしい。
 そんな地形に手つかず自然が残されており、島の90%が森林に覆われ、島の中央の宮之浦岳
(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道など島の面積の20%以上が世界自然遺産に登録されている。
 雨量は半端でなく多い、「屋久島はひと月に35日雨が降る」と云われるほどで、平地で4000〜5000mm、
山地では10000〜12000mmにもなる。平地の記録は日本一、山地のそれは世界一にもなるらしい。
(因みに東京の年間降水量は1500mm)
 この雨量を利用して屋久島電工社が島内の電力供給を行っている。この会社は国内で炭化ケイ素
のインゴットから粉末まで一貫生産する唯一の会社で、硬度の高いその成分で研磨剤や耐熱治具な
ども生産している。

 空港から13人ほどに別れて二台のバスで島を巡る。先ずは樹齢推定3000年以上と云われる紀
元杉を見学。標高は1230mのバスも走れる道路近くに紀元杉はあった。
 快活な現地女性ガイドの説明では、樹齢1000年以上を屋久杉と云い、それ以下は小杉と云い、更
に人工的に植えられたものは地杉と区別されるらしい。屋久杉の成長は年に2mm程で、その成長は
遅いのだ。
 紀元杉の周りを巡る様に小径が出来ていて、その根に近い太い幹に触れる事が出来る。霊験新たか
な事とかで、誰もが触って行った。見上げれば見事な巨木に苔の様に様々な着生植物が貼りついている。
この紀元杉のには20種の着生植物が付着しているとガイドの説明があった。

 少し径を戻り、「屋久杉自然館」を訪ねて、屋久島と屋久杉の展示を見学する。この建物の床は杉
材で敷かれており、素足で館内を歩く様になっている。

 分かり易い展示であったが、印象深かったのは屋久杉の歴史だ。以下がその要約。:

 古くから信仰の対象であった奥山に育つ屋久杉を伐採することは無かったが、島津氏が強大になり、
さらに天下統一がすすめられる時代になると、特別な建築のために屋久杉が伐採されるようになり、
500年余り前と推定される切り株が確認されている。また、秀吉の京都方広寺の建築材を調達する
ため、島津氏の重臣が調査に来島した記録もある。

 屋久島支配を強めた島津氏は、江戸初期に屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立した。こ
の時代に藩財政の安定と島民の生活向上を願って、提言したのが安房生まれの儒学者 泊如竹で、
以来、幕末までに5〜7割もの屋久杉が伐採されたと推定される。その跡には小杉と呼ばれている若
い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれている。

 明治時代になると国有化の動きがあり、大正の末には裁判に敗れて屋久島の森林のほとんどが国
有林として確定されてしまった。屋久島憲法とも呼ばれる「国有林経営の大綱」が定められ、国による
事業が本格化し、第二次大戦後、復興から成長へと展開する昭和30年代には大量に伐採された。
 チェーンソーが導入され、広葉樹を含めて皆伐が一挙に進み、経済成長のために国内の森林資源
が強く求められた時代でもあった。
 大量伐採がおこなわれる一方、自然を守る動きも活発になり、併せて、輸入木材が増え、昭和40年
代後半から国有林事業が大幅に縮小された。

 昭和60年代には、森林生態系を活かした事業が導入され、続いて森林生態系保護地域が設定され、
残されている1万数千haの屋久杉の森は、伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられた。

 「屋久杉自然館」からこの日の宿の「屋久島いわさきホテル」に入る。立派なホテルで露天温泉もあった。
これは霧島火山帯の端に位置する為だと云う。

  
       紀元杉                 屋久島自然館


       着生の芽や屋久杉の胴回り         杉板は年貢や島の納税期
  

@2日目(屋久島巡り→奄美大島)

 早朝、ホテルを囲む自然林を歩いた。10分ほどで廻れる径と記してあったが、これはゴルフカートによる
表示とかで、30分以上時間を掛けてしまった。日の出を見る事も無く樹林の隙間に太陽を見ただけだっ
たが、鳥たちの声を聞きながら朝の空気を十分に吸い込んだ。
 バスに乗っての最初の行き先は「大川(おおこ)の滝」、落差88mの美しい山間の滝で急峻な花崗
岩を滑る様に流れ落ちていた。
 次いで西部林道の入口から徒歩で自然原生林に設えられた小径を歩き、マスクも外し、フィトンチッ
トの効果を体感する。途中、ヤクサルやヤクシカも出て来た。この島では、人も猿も鹿も凡そ2万だっ
たが、最近は人は12000人程に減少し、ガイドは是非移民して住んで欲しいと言っていた。

 
      大川(おおこ)の滝             小型の野猿(屋久島の固有種)


        春日射し深山の滝の輝けり            春鹿の浜より山へ一気駈け     


        長閑けしや車道を退かぬ島の猿         屋久杉と生きて千年島の春


 バスに乗って、丸い屋久島を時計に喩え、時計回りに海岸線を進む。宿は6時で、大川の滝は8時、
西部林道は9時に位置する。次の目的地の白谷雲水峡への登り口は13時辺りになる。
 白谷雲水峡では、専門ガイドの案内で約一時間のハイキングとなった。このために、トレッキングシ
ューズを履いてきていた。(この靴は、富士登山とギアナ高地で使い、今回が3度目になる)
 ガイドは島の名物タンカンの畑仕事が終ったので、この観光を手伝っていると話していたが、参加者へ
のケアーと説明はとても良かった。加えて、雨の多いこの屋久島で晴れにも恵まれた。
 
 水源からの白谷川の渓谷を沿って辿れれば、照葉樹林の中、細く滑りやすい花崗岩の岩場や木の根
の径が続く。見どころの、ほぼ直線に流れ落ちる飛竜落しの滝、もののけ姫のイメージを得たと云わ
れる森、等を経由して二代大杉にまで歩いた。途中には土埋木や倒木が至る所にあり、それらに着生した
植物が育っている。屋久杉は樹脂を多く含んでいるために、200〜300年を経ても腐ることなく残っている。
これらの残材を使って、貴重な屋久杉工芸品を作っている。
 到着した二代大杉とは、切株の上に種子が落下して発芽生育した世代交替した杉で、切株交替とも云
われる。高さは32m、胸高周囲4.4m、標高は730mと木札に記されている。

 
                      @                                 A

         白谷雲水峡にて飛竜落としの滝@、二代大杉A、もののけ姫の森B↑

 大いに満足して、バスに戻り下山して昼食は、屋久島料理の菜飯を豆腐、そして、この地で獲れる
飛び魚などで、いずれも、屋久杉の器や皿に載って出てくる。勿論、箸も同様だ。食堂は土産屋も兼
ねているので、ここで、タンカンを買った。薄手の皮を剥けば、上質な肉感を楽しめる。

 これにて、屋久島空港へ向かい、チャーターのプロペラ機で奄美大島へ飛んだ。離陸して直ぐに種
子島の上空に入る。屋久島と異なり、平地が多い。宇宙センターの様な建物が見えた
 奄美大島空港に到着しこの日はそのまま宿に入った。海べりの宿「奄美リゾートばしゃ山村」で、部
屋は貧弱だったが、それはさておいて、美しい海をしばし散策した。
 

      タンカンの収穫終えてガイド業        水温むとて奔流に魚棲まず 


         春の闇もののけ姫の森無音           切株に芽吹き次代を継ぐ巨木


       屋久杉の六気触れたる芽吹き時        木漏れ日の透かす透かさぬ若葉たち



@3日目(奄美大島巡り)

 先ずは金作原(きんさくばる)原生林を歩く。太古の昔、奄美大島は大陸から離れ、動植物達は、亜
熱帯気候の中で、独自な進化を遂げてきた。日本最大のシダ科のヒカゲヘゴのジャングルはその代
表的な植物で、国の天然記念物の瑠璃カケス、黒ウサギは動物の代表でもある。
 バスを下りて退職ボランティアの様なガイド氏と一緒に小一時間程この原生林の径を歩いた。
シダ類が多いが、その中でもヒカゲヘゴが高く伸びて美しく天を覆う。これが太古から生き残った植生
なのかも知れない。恐竜が好んだとも云われる。瑠璃カケスはその姿に似ない濁声は聞くことが出来
たがその姿を見る事は無かった。黒ウサギもこの島にしかいないが、めったに見る事はないらしい。
ハブは時々見る事はあり、ガイド氏はハブ獲り棒を持っていると自慢気に話していた。
毒性があるクワズイモがここにも大な葉を茂らせている。
勿論、ここでは、林道以外への立ち入りは禁止で、動植物の採取、持ち込みも固く禁じられている。


     ヒカゲヘゴの木              金作原の原生林  

 金作原から国道58号線を南下してマングローブパークへ向かう。この国道58号線は鹿児島市を起
点にして種子島、奄美大島を経由して那覇市に至る一般国道で、フェリーで結ばれる海路も国道扱い
とされ、総延長は879q(海路は609q)で日本で一番長い国道だ。
 バスはマングローブパークに駐車して、島の住人たちがグランドゴルフを楽しむ広大な広場の先の
カヤック乗り場へ進む。ここで、カヤックを漕ぐ体験をする。救命具を身に付けて、二人乗りカヤックで
マングローブの茂る干潟へ漕ぐのだが、二人のリズムが合わなかったりして、思うように進まない。そ
れでも、カヤックの専門家に率いられてなんとか目的地の干潟に上陸した。専門家のマングローブや
景観の説明を聞きながら、豊かな自然を満喫する。マングローブの小さな木々の育つ泥土に、丁度、
引き潮で出てきた潮招きが愛らしい。
 帰路は引き潮の激しい時に当たり、潮に遡る為に、カヤックの操舵が思うように行かない。そんなカ
ヤックがあちこちにあって、付添の専門家がそれぞれのカヤックを直列に繋ぎ、引っ張って貰った。引
き潮なので、膝ほどの深さだから、専門家は綱を引きながら歩いていたが、、2m以上の満潮時には
どうするのかと、あらぬ心配をする。

 
      カヤックの体験          引き潮に逆らえず、ガイド氏は綱で引き帰る  


      春潮やマングローブへカヤックで        潮引かば潮招き寄すシオマネキ


 昼食を済ませ、次のプログラムは奄美大島酒造(株)を訪ね、黒糖焼酎の工場見学と試飲を楽しむ。
話し上手の酒造会社の案内だった。曰く「当初は島特産の奄美の黒糖だけの酒を目指して、テキーラ
の様な火酒を作ったが、酒税が高すぎるので、米を入れて、焼酎にした云々・・」「最初はストレートで
先ず味わって欲しい・・」
 試飲会場では10種類ほどの黒糖焼酎の瓶が並んでいて、都度、マスクを外して試飲したが、それぞ
れに風味があった。そして、些か、目の周りを赤らめる人も出た。

 この日は奄美市の中心繁華街に宿泊で、夕食は各自に摂る。生憎のコロ蔓延防止規制中で、店は
概ね閉じていたが、幸いにも、新たに開いたと思われる店に入って、地の海鮮を使ったイタリアンを楽
しむ事が出来た。

 
    試飲会場                蔓延防止規制で閑散とした奄美の繁華街


        うららかや試飲あれこれ黒糖酒       春宵の奄美の街は灯を落し


@4日目(奄美観光→鹿児島→羽田)
 昨日までの好天気が小雨が模様の曇りになってしまった。先ずは珊瑚礁が砕けてできた白浜の大
浜海浜公園へ。海底火山の軽石を取り除いた掃除が先週末に行われたとかで、美しい浜辺だ。海の
色も太陽があれば素晴らしいと十分に想像させられる。

 次いで、大島紬村へ行く。大島紬の製造工程が泥染めなどの染色、機織り加工など丁寧な説明が
あり、その展示販売ショップへ誘導される。大島紬の染料となるシャリンバイの木や南国特有の植栽
も敷地内にあって心安らぐ。
 絹糸を20回から80回も染め込んでシャリンバイのタンニンで茶褐色に染めて、更に、泥染めでしな
やかなで艶のある糸に仕上げる。それらの糸を全て手織りで、名人芸とも言えるベテランが時間を掛
けて着物の反物に完成させる。撮影禁止のショウルームの着物の値段は100万円以上だったのも頷ける。

 
     大島紬村にて   泥染め            繊細な機織り


       泥染めは井守の池や紬村         紬織る手は細やかに春燈下

 

 昼食は奄美大島名物の鶏飯料理で、実に美味かった。鶏肉、錦糸玉子、しいたけ、パパイヤの漬物、
タンカン(柑橘類)の千皮などの具を熱いご飯の上にのせ、地鶏スープをたっぷりとかけて食べる。こ
の食堂には平成の両陛下も来れれたと言われている。

 午後は「奄美パーク」を見学する、奄美の自然、歴史、文化を展示している。それらによると、縄文
式時代後期から本土と交流があり、主な交易品には貝だったとか、興味深い。遣唐使もこの奄美に
寄ったり、平氏の落ち武者の統治があったとか、興味が尽きないが、時間が無い。

 併設されている田中一村記念美術館を見る。彼は昭和33年(1958年)に50歳で奄美大島に移住して、
染色工として働きながら絵を画いた。69歳でひっそりと生涯を閉じたが、その後に作品が紹介されて
注目されるようになった。丁度、特別展もあって、常設展も併せて大がかりな展示となっている。
その2001年にオープンした建物も大掛かりなものだった。貧困な独身のまま亡くなって、その30年後
には、こんな立派な建物に展示されて、なんとも、皮肉なものだと思う。近くの展望台に登ってみても、
その規模の大きさに変な感じを禁じ得なかった。

 空港への途中、奄美十景のひとつ、あやまる岬に立ち寄り、遥か遠方に太平洋と東シナ海の境とな
る標識を眺めた。珊瑚礁が広く遠浅の様で、貝の道の一貫を担っていたのも頷ける。

 奄美空港から、鹿児島空港を経由して羽田に無事到着した。最終日を除いて天候に恵まれた事は
良かった。


   展望台から見る奄美パーク(左)と田中一村記念館(右の三棟)


       春愁や貧しき画家の死後の華        磯菜摘む太平洋の果てで摘む

 

日本のサファリ」のTOP      back                next             HOME