五島列島巡礼の旅(ユーラシア)

2022年11月26日〜29日
一日目:
 男性は3人、十数人の女性の団体旅行で、初日は羽田から長崎空港経由で五島列島の福江へ至る。
昼食は機内にて、羽田で買った稲荷ずしなどで簡単に済ます。

 着後、下五島産の葡萄を使ってワイナリーにて醸造所の見学と、試飲などのプログラム。
昼からの試飲だったが、ほどほどにして、引き続く旅程に差し障らぬ程度とする。ニュージーランドの醸造技師の指導を受けているとの説明だった。

 その後、空海が訪れ、命名もしたと云われる五島最古の寺「明星院」を訪ねた。福江島には遣唐使が行きも帰りも途中立寄り、船を休める入り江がある。最澄に因む足跡も多いという。
 空海は虚空菩薩を安置していたこの寺に赴き、虚空蔵聞持法の真言を百万回唱えたとか・・本堂の格天井画の下でそんな説明があった。

 
教会のある五島のワイナリー               空海所縁の明星寺

     冬青草ワイナリーもて島起し                冬凪や遣唐使らの寄りし島

 次いで赤レンガのゴシック様式の堂崎教会へ向かう。明治時代にカトリックの禁教が解かれ、五島で最初に神父が常駐した教会で、26聖人のひとり五島出身の聖ヨハネ五島を記念して、「日本26聖殉教者」を所縁の教会として建てられている。建物の前にはいくつかの像があるが、十字架に架けられた聖ヨハネ五島の像が凄まじい。

 
               堂崎教会と聖ヨハネ五島の像   

       
冬ざれや等身聖者の磔刑像               石蕗咲くやクルス地蔵の石祠

                        猪の罠や教会裏畑      


 次の水ノ浦教会にはキリスト受難の14留(悲しみの道)のミニチュアが裏山の墓地までの道に沿って造られている。エルサレムの現場には5年前に訪ねているので、興味深い。

 
 水ノ浦教会            キリスト受難の悲しみの道のミニチュア

   冬晴れや丘に真白き天主堂            十四の留の坂道石蕗咲けり

五島市内のホテルでは五島牛の懐石料理が夕食だったが、些か、筋っぽかった。

二日目:
 午前中は五島列島の下五島の観光。下五島とは福江島、久賀島、奈留島、島山島と嵯峨ノ島を指す。行政的には五島市となるようだ。一方、上五島とは、中通島、若松島などをさし、新上五島町となる。

 先ずは福江島の貝津教会を訪ねる。大村藩から移住した潜伏キリシタンたちが、明治なっても代官屋敷で牢に入れられて責め苦を受けた。明治6年2月に禁教の高札が撤去されるまで、この様な状況が潜伏キリシタンには及んでいた。岩倉卿などが対外国交渉交渉に際して諸外国から強い圧力があったためと云われている。禁教の高札撤去から半世紀後の1924年に当時40戸ほどの信徒たちにより木造10坪足らずの小さな聖堂が建立された。その後は改修工事を経て今日の姿がある。地元の人たちが製作したステンドグラスが堂内を彩っている。内部へは靴を脱いで入る。内部の写真は禁止されている。

 次に、井持浦教会へ行く。明治の初期に五島で迫害の嵐が吹き荒れた時に、唯一迫害を逃れた地区で、明治30年にフランス人宣教師の指導で煉瓦造りの立派な教会が建てられ、この地に、フランスのルルド(聖母出現の地)を真似た洞窟の創設された。教会建物は昭和62年の台風被害で取り壊され、翌年、建て替えられた。
  
井持浦教会のルルド   外観                  内部

 
     貝津教会                      無住の屋敷がいくつもあった


   冬日影ステンドグラスの揺らぐ床           冬草や限界村の荒れ屋敷

     岩間よりルルド聖水羊歯青し             聖堂に人なき静寂十一月

 教会の後は大瀬崎断崖展望所に向かう。東シナ海を望む福江島最西端に位置し高さ150mの断崖絶壁が20kmにも及び、本州では最後に日が沈む展望台と云われ、大晦日には大勢が訪れる。ここの灯台は、古くは映画「名も無く貧しく美しく」、そして、今年の朝ドラ「舞い上がれ」の舞台として撮影されている。快晴で素晴らしい景観だった。

        東シナ海と「名も無く貧しく美しく」の舞台だった大瀬崎灯台

      冬椿分けて崖下を覗きけり          冬うららドラマを成せし古灯台


 昼食は五島豚、ブランドは美豚と名乗るらしい。いかにもブランドらしく愉快、そして、味は上々だった。店にはバラモン凧がいくつも飾られていた。

 福江島から海上チャーター船でで新上五島へ向かう。その途中、久賀島の旧五輪教会、奈留島の江上天主堂を廻る。ボートは大小の島々の間を水脈を引き残して縫うように走った。
時として島には釣人が独り磯岩に見える。朝に海上タクシーで釣り場に運んでもらい、日暮れ前に同じタクシーで港に戻るという。
 久賀島の旧五輪教会は仏教徒の助言により文化財として保存されていて、2018年には世界遺産に登録された。信仰対象の新教会は隣に赤レンガで建てられている。
 奈留島のこの狭い江上集落は禁教期に潜伏キリシタンが人目を避けて入植したことに始まる。僅かな農地と漁業で生計を営み、自らの信仰を組織的に続けた。
 
  旧五輪教会(左端)と新五輪教会(右端)                  板張りのリブ天井の教会内部

     冬日射す古教会の色硝子                信仰を続けて枇杷の花盛ん

 
   奈留島 江上天主堂                      奈留島の船泊
   

      十字架の見えぬ教会島の冬            村枯れて五件の家に婆ふたり

更に船が新上五島町の島々へ近づき、途中の若松島、土井の浦の切支丹洞窟に乗船したまま立寄る。五島崩れの時、この近くの信徒たちが、入口を発見され難いこの洞窟に隠れた。しかし、朝食を炊く煙を見つけられ、捕らえられて拷問を受けた。いつしかここをキリシタンワンド(洞窟)と呼ぶようになったと云う。

 
       西海国立公園の島々                         キリシタン洞窟


     カツオドリ冬の波間へ突き刺さる          冬涛の荒磯の洞にイエスの手

 若松港で下船して、若松島から立派な橋を渡り中通島のホテルマルゲリータに宿泊する。食事(イタリアン)も雰囲気も窓からの景観も、そして、温泉も素晴らしい。

三日目:
 海が荒れ気味になってきたが、海上タクシーを利用して無人島の野崎島へ渡る。風が抜ける島の間では船は激しく揺れて、船室は大揺れだったらしいが、操縦席の後ろで船長と話ながらだったので、その揺れを楽しんだ。
 野崎島は中通島の北に位置する小島で、江戸時代から人が住み始め1950年代には3つの集落を形成されていた。しかし、2001年に最後の住民が離島して無人島になった。
 旧野首教会は鉄川与助が初めてレンガ造りで建てた教会で1908年に完成した。野首集落に住んでいた17戸の信徒が生活を切り詰め、キビナゴ漁などで資金を蓄え、工費2885円(現在の2〜3億円)を捻出した。教会の敷地は野首集落の潜伏キリシタンの指導者の跡地で、暦を管理する最高職、帳方が暮らしていた。これは、かつての潜伏キリシタンの指導者とパリ外国宣教会の密接な関りを知る事が出来るとの事。無人の教会は管理人の都合で中へ入ることは出来なかった。
 野崎島の西隣に小値賀(おぢか)島があり、2000人余りが温暖な気候下で農業がされているが、恒常的な水不足だった。このため、この野崎島にダムを作りその水を海底に鋼管を敷設して送水している。3kmしか離れていないが、野崎島は山があって、雨量が多いためにこの事業が成されたと解説板があった。

 
  旧野首教会                       先方に見える小値島へのダムからの送水管


         冬晴れや無人の島の天主堂          水涸れの島へ海底給水管

 津和崎港に戻り仲知教会へ向かう。港から教会までの道は、細長く伸びた中通島の北部をくねくねと曲がるので、左に右に海が見える。
 仲知教会は外海(そとめ)から入った潜伏キリシタンに始まり、1881年に五島最古のこの木造教会堂が建てられた。今の教会は三代目で1978年に建てられた。信徒70数戸の各戸の負担は百数十万円の多額の拠出と労力奉仕がなされた、との事。ここにもルルドの聖母像が置かれていた。ステンドグラスの美しいと云われる内部には入れなかった。
 次の江袋教会もキリシタン禁制の高札が降ろされて間もない1882年に民家を改造して建てられた。現存する最古の木造教会で貴重な遺産なのだ。山の中腹にあり、近くの信徒の家では名物「かんころ」の芋が干してあり、教会に隣接する交流館ではその製造過程の説明などがされていた。
 更に青砂ヶ浦教会堂を訪ねる。この教会も鉄川与助による三代目の煉瓦造りの教会だが、幕末の浦上三番崩れの殉教者で帳方・吉蔵は身を寄せていたここ青砂ヶ浦で捕縛された。この青砂ヶ浦小教区設立100周年記念として何故かミカエル大天使のカラフルな像があった。ここでは正午の鐘の音を聞く段取りが取られていた。
 その後の昼食は海鮮丼と名物の五島うどん。湯掻いた手延べうどんを卵を溶いた汁、或いは、キビナゴのだし汁につける。極めて味は良かった。
  
 仲知教会のルルド像         江袋教会の像      青砂ヶ浦教会の天主堂


   雑草を刈る信徒女の頬被り   冬日差すかんころ餅を干す斜面   教会の正午の鐘や冬日和

 昼食後、鯛の浦教会へ行く。ここには隣接して新旧の教会があり、1903年に建てられた旧教会は資料保存館で、新教会は1979年に建てられた。敷地にはここにもルルドの聖母像が設えられている。併せて、この教会に因んだ、功績のあった4体の像が置かれている。旧教会堂内には見事な聖壇に加えて、踏絵なども展示された。
  
   旧鯛の浦教会           内部の聖壇            展示されていた踏絵


      聖壇の脇に馬小屋イブを待つ            凹凸の鈍き踏絵や冬日影

 
一風変わった海童神社、少し立寄る。捕鯨が行われた証にナガスクジラの骨の鳥居があった。以前は定期的に骨を換えていたが、今は樹脂コーティングされているらしい。近くの物産店には鯨肉専門店もあった。

 中通島から頭ヶ島へ入る。ここにも立派な橋が架かっている。1813年の伊能忠敬図では無住の状況で画かれている。本格的な開拓は1858年(安政5)に前田儀太夫(仏教徒)によって始まり、翌年、大村藩の外海出身で鯛の浦などに居ついていたキリシタンが移住してきた。キリシタンに寛容な前田と共に開拓を進めた。この島へは1867年に当時キリシタンの指導者的存在だったドミンゴ松五郎が入り、長崎からフランス人神父を招き自宅でミサを行ったりしていた。しかし、明治に入り、五島崩れと云われる捕縛が起き、潜伏信仰には格好だったこの島のキリシタンも連れ去られ、再び無人に近い島となった。解禁後は徐々に信徒が島に戻り、木造の頭ヶ島天主堂が建てられた。今の石造り教会は二代目の教会堂。受難時代の殉教者の名前を刻した石碑や、キリシタン拷問の石なども置かれている。
 山道を下って海辺の教会へ行のだが、その道が狭い為か、少ない交通量にも拘わらず交通整理が成されていた。天主堂の内部は椿の様な花模様で設えられていた。クリスマスが近い事もあって、イエス誕生の馬小屋を聖壇の横にかざられていた。海辺に近い平地には花で飾られた教会墓地がある。
 次いで、近くの冷水教会へ向かう。鉄川与助の27歳で独立した最初の設計施工した教会で、内部には入れなかったが和風を感じる清楚な白い建物だ。
 
      頭ヶ島天主堂                    冷水教会


   
殉教の集落ユッカの返り花                  聖夜待つマリアを飾る豆電球
 
四日目:
 昨夜の嵐で朝から海が荒れている。長崎へ戻る高速船が欠航と決まり、時間が倍ほど掛かるフェリーとなったために新上五島の観光は早朝から急ぐように始まった。
 最初に訪ねた中の浦教会は小さな入江に建ち、水鏡のように対岸からの風景が絵画的と云われる。この教会は激しい弾圧を経験した信徒たちの「五島で一番美しい聖堂を」との願いを形にした。
 次いで大曾教会を訪ねる。ここも設計施工は鉄川与助で、ステンドグラスはドイツ製との事。階段を下りた海岸近くにウバメガシの巨木が植生されていた。300年以上前に紀州からの移住してきた漁民の手によるものらしい。ここでは紀州カシとして親しまれている。(この木は漁網の染料や漁船の一部に使われていた)
    
  中の浦教会             大曾教会           ホテルロビーの聖樹


        浦波に揺らぐ聖堂冬曇り           冬なれど真青の紀州ウバメガシ

 ここで地元で、江戸時代から昭和まで行われていた捕鯨の歴史や鯨の生態などの展示する鯨賓館ミュージアムを見学する。鯨だけでなく、五島の歴史、遣唐使船の寄港地だったことや、キリスト教迫害の時代、禁教の高札が降りた後、など歴史が丁寧に展示されている。この建物の二階は五島出身の第50代横綱、佐田の山の資料展示もあった。
 五島の捕鯨では、セミ鯨(背美クジラ)が味が良いとして高値で売れたと云う。沖合に出た見張り船から狼煙を三本上げれば、「セミ鯨が来た」と云う合図で浜は喜び、狼煙が一本は他の種の鯨なので、沸き立つことは無かったとか・・・ガイドの解説でした。また、鯨とイルカは同じ種で体長4m以上を鯨、以下をイルカとしている・・・これもガイドの話。
 鯨賓館ミュージアム近くで昼食し、奈良尾港からのフェリーで長崎へ向かう。2時間半の2等船室で些か波で揺れながら過ごす。乗客は靴を脱いで、適当な居場所を決めてごろごろと時間を過ごした。
 
   地元出身の横綱佐田の山像               鯨賓館の展示


        鯨来る沖りの狼煙が三すじ         冬棕櫚は像の太刀持ち露払い

                   毛布かけごろ寝や時化の連絡船

 長崎港から大浦天主堂へ訪問する。1865年に建てられた当時はフランス寺と呼ばれていた。1597年の長崎西坂で殉教した日本二十六聖人に捧げられた天主堂で処刑された場所に向かって建てられている。1865年3月17日に浦上の信徒14〜15名がプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」はキリスト教の歴史に残る奇跡で、このが禁教令廃止へと進む事になった。

               クリスマス飾りの大浦天主堂


      電飾の笛吹く天使待降節             殉教の絵図に心を寒くする

長崎空港から「巡礼の旅」と銘打った旅を終えて長崎空港から羽田へ、そして、無事に帰宅した。

日本のサファリ」のTOP      back                next             HOME