<かって勤めた工場を訪問>

30余年前に働いていた工場を訪ねた。敷地は半分に、事業は縮小して乾電池のみで、私のラジオ工場は10年前に生産は止めた。日本人は3人で、タンザニア人従業員と奮闘している。

社長の案内で乾電池の工場見学させてもらう。当時のままの建物の中で、新しい亜鉛缶の再生機械以外は当時のままの設備が動いていた。食堂もそのままだった。私の建てたラジオ工場は倉庫としてダンボールが積み重ねてある。産業を保護された当時と異なり、今は自由に品物が入ってくるためにラジオ工場は閉鎖された。
乾電池も他国からの密輸品や安価な粗悪品との競争に苦戦を強いられているようだ。

それでも、全員の努力で一時期の底から立ち上がっていると聞く。

私の知っている従業員が4人いた。Cさんが予めアレンジしてくれて、会うことが出来た。

30余年を勤めて、今も工場で管理職として立ち働いている。一緒に別室で会わせてもらい、再会の喜びを分かち合った。多くが会社を辞し、かなりの人が亡くなっていた。孫が何人もいると自慢する好々爺、「実は・・」と言って社内結婚を白状した者、愉快なひと時だった。幸せな人生をお互いに過ごそうと、記念写真を撮って別れた。

この日の帰国するEさんは空港へ向かう。旅慣れたYさんとダニエルさんが空港までアテンドした。

<バガモヨとカオレ遺跡>

10月6日は週末の土曜日、100余年前まで奴隷の積み出しをしていたバガモヨへ行く。道路が舗装され1時間で着くとの話だったが、ダルエスの郊外を抜けるまでは大渋滞で、行きも帰りも2時間以上掛かった。
人口が増えてドーナツ現象で住宅が遠くまで広がっている。車のほとんどは日本から中古で、中には日本語で幼稚園や温泉宿の名前をそのまま残している。

バガモヨは人も少なく、30余年前に我々が住んでいたダルエスの様な感慨を持った。奴隷を積み出した港には漁舟から直接に糶をしている様子が見て取れる。カヌーや一帆のダウ舟も見える。

↓の写真の様に当時のダルエスにそっくりな風景だ。

少し離れた広大な敷地を有する教会へ行く。アラブ時代の奴隷貿易への反発が、キリスト教の布教の素地を生んだのだろう。教会内のマリア信仰壁画はそんな黒人の気持ちを示しているようだ。敷地には学校や巡礼者の宿舎もある。

19世紀に建てられたドイツ時代の総督府の建物が、海に向かって朽ちたままに日を浴びていた。遺跡として残す予算がないのか潮風と雨ざらしで崩壊しそう。

昼食は海沿いのホテルを使った。椰子の葉で葺いた開けっぴろげのレストランでの魚料理。歩いて浜に出ても、人はほとんど居ない。漁師がダウ舟を操っているのが近づいてくるだけ。のんびりとした白砂青椰子で心地よい。

午後に訪ねたカオレは1980年代に発掘された13世紀のアラブの都市遺跡で、今も発掘が進んでいる。
我々の住んでいた当時には無かった遺跡だ。女性ガイドの説明によれば、この場所は墓地だが、付随するモスクや住居跡もあるらしい。石組みの壁に石棺や井戸があった。
アラブの進駐は奴隷や象牙の獲得なのだろう。新たに、この地の古い歴史が発掘されている。

朝露や奴隷括りし鉄の杭

渋滞の中にダルエスのホテルに戻ったのは夕闇迫る時刻だった。
ホテルの玄関には、結婚式の集まりが数組あって、着飾った人達で賑わっていた。昔は殆ど見ることの無かった情景で、豊かな階層も出てきているのだと感じる。


馬肥ゆる昔のヤンチャの孫話

星飛ぶや泡の弾けた時間軸

<カオレ遺跡>

<東アフリカ最古のカソリック教会>

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