8日目(328日)

この日は早朝315分のモーニングコール。
その少し前に目が覚めたら停電で、闇の中を懐中電灯と宿のローソクで出発準備してホテルを発つ。

ソ連兵として出兵したウズベキスタン出身の戦没者名簿

第二の都市ウルゲンチの空港から首都タシケントへ飛び、そのまま旧市街のハシュドイマム広場へ。

ソ連とは流れ解散春の雲

日本人墓地守る爺は花も守る

羊皮紙の血染めコーラン冴返る

花は葉にレーニン像は地球儀に

見晴るかす耕し未だコルホーズ

日本人墓地と桜の花

 歴史博物館はソ連時代の威風堂々の3階建ての建物。石器時代からの展示品が並ぶ。独立前にモスクワへ運ばれた物も多いらしい。
 
 最大の見ものはン南部のテルメズで発掘されたクシャン朝時代の三尊仏像でガンダーラ風な穏やかな表情が印象的。

 多くの仏教遺跡の発掘が日本人も参加して中央アジアで進んでいる。

独立広場のコウノトリと地球儀のモニュメント

日本人達が建てたナヴォイ劇場

 博物館には7世紀に鹿の皮に書かれたコーランが展示されている。この国の宝、最古のコーラン原本の内のひとつで、チムールが手に入れたとされる。
 開かれたコーランには大きなアラビア文字で経典が記されているが、中央に血が付いている。コーランを写経した人が仕事後に切られた血痕だ。ここの写真撮影は禁止されていた。

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 タシケント空港で同じ帰国便を待つ福島県の元農業指導員と会った。1979年から桃やリンゴの品種改良を現地人に教え、ようやく、糖度の高い実がとれる程になったとの事、92歳になった今も毎年作柄を看るために訪れている。その矍鑠とした姿が眩しかった。

夕食はウクライナ料理店だった。たまたま、ウクライナ紛争の最中だったが、ここは平和な雰囲気だ。ここで、マリカさんがツアー参加者全員にウズベキスタンの敬老土人形を贈ってくれた。

素晴しいガイドからの心配りとおもてなしが有難い。

ツアーの最後はスーパーマーケットで、ここで初めて鮮魚を見た。今回のツアーは全て食事付きだったが、魚料理は無かった。二重内陸国で塩分の強い湖や川で漁業が壊滅的なのだ。この売場では貴重な鯉と鯰とチョウザメが並んでいた。

これは紙製のコーランだが、、、

バラク・ハン神学校と博物館の凝った屋根

 タシケントを22時40分発の飛行機でソウルへ、そこから成田へ翌29日の12時に到着した。

第二次大戦直後、多くの日本兵がスターリンの指示で強制労働を強いられ、その内の2万人以上がウズベキスタンで従事した。そして817名が帰らぬ人となり、このタシケントでは79名が眠る。広大な霊園の一画に整備されていた。隣接するドイツ人墓地へお参りするドイツ人のグループにも出会った。

 墓守の男性に残った現地のお金を渡して、感謝の気持ちを伝えた。丁度、日本から移植された小さな桜の木に花がちらほら咲き初めていた。

クシャン朝時代の三尊仏像

 1947年にシベリヤからタシケントに抑留された日本人達が建てたナヴォイ劇場を見ながら、歴史博物館へ向かう。

 途中、ソ連兵として出兵したウズベキスタン出身の戦没者の名前を刻した金属の名簿と、子を失った母像を置いた広場もあった。

 そこから独立広場を歩く。政府関連の建物やモニュメントが多い。かつてのレーニン像の台座には大きな地球儀がのっている。

16世紀シャイバニ朝のバラク・ハンによって建てられた神学校。入口のアーチには美しいモザイク模様とアラビア語の文様が描かれている。ソ連時代からイスラーム本庁が置かれていたが、2007年の改修後、内部の一部は土産物屋になってしまった。

 遠い中央アジアで我々日本人と同様に「おもてなし」と「はにかみ」の心を持っているウズベク人に出会えた事が何よりのこの旅の大きな収穫だった。

 この後、朝鮮料理とチャーハンなどの昼食があり、午後はホテルでの休憩。出発まで3時間を使って、日本人墓地を有志と花を持って訪ねた。ツアー外の行動だったが、中山恭子さんの『ウズベキスタの桜』で啓発されて、この時間に行く事を決めていた。