第3日目 : 6月26日 (ベルリン→ポツダム→ベルリン)

午後はベルリンから西南に35kmの近さにある古都ポツダム観光。 先ずはプロイセン王のフリードリッヒ大王の居城として18世紀半ばに建てられたサンスーシ宮殿とその庭園へ直行する。サンスーシはフランス語でその意味は「憂いのない」との事、日本や中国では「無憂宮」と呼ばれる。内部を見学する時間は無いが、黄色のロココ式宮殿と、広大な庭園へ至るテラスの壁はぶどうの植栽で、その緑とが調和して美しい。ただ、外観の一部を見ただけだが、絶対君主フリードリッヒ大王を知る有意義な時間だった。

次に1917年に完成した英国風の館ツェツィーリエンホーフ宮殿へ回る。ホーエンツォレルン家の最後の皇太子は妃の名前をこの宮殿の名前とした。
 この宮殿はポツダム会議の場として使われ、第二次大戦のドイツの戦後処理と日本への全面降伏を求めた宣言を発表した所だ。ポツダム宣言から815日、敗戦の玉音放送までの半月間に、ふたつの原爆が落とされ、ソ連の戦争介入が成された。宮殿内部の会議場には円卓を囲む代表団の席がそのまま残され、当時の米・英・ソ、三巨頭の写真や、彼らの控室もあり、興味深い。この会議に参加した三国の外交官達は殆ど徹夜で準備、調整を図ったと言われる。

逸話として、会議にチャーチルが自分の飼い犬を連れて行こうとした。しかし、不謹慎と言われて、その犬の絵を画かせて控室の壁に掛けて置いた。ところが、会議途中の英国総選挙でアトリーに敗れ、急遽の帰国。この絵はそのまま、今も壁に残っている。

ふたつのポツダムの宮殿はいずれも世界遺産に指定されている。

<ブランデンブルグ門と観光パントマイム↓>

<ベルリンの壁アート>


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<ベルガモン博物館の展示:バビロンの門>

<ツェツィリエンホーフ宮殿>

<ポツダム会議の会場となったサンスーシー宮殿>

先ず、ベルリンの壁跡へ案内される。シュプーレン川に沿って約1.3キロがギャラリーとなっており、ドイツ内外の画家の描いた壁画部分の壁が保存されている。川自体がこの辺りは東ベルリンの領域だったので、当時は壁画もなかったが、壁の崩壊後に描かれた。屋外ゆえに、絵は痛み、落書きもあったようだが、画き改められ、補修もされて、我々の見た壁画には傷や落書きは見られなかった。1990年、ベルリンでの販売会議で、現地の会社から記念品として「壁」の破片を貰った事があったが、今は昔の感がする。

この後、バスの窓からでベルリン市内を観光し、ブランデンブルグ門へ向かう。プロイセン王国の凱旋門として建てられたが、皮肉にも、これを打ち破ったナポレオンが最初に凱旋した。そして、何よりも統一ドイツの象徴だ。東西ベルリンを分けたこの門も今は観光の名所として、統一前の兵士姿のパントマイムや観光馬車がのんびり走っている。一週間前に日本の皇太子殿下が泊った高級ホテル・アドロンもその脇にある。

短い半日ベルリン観光を効率的にこなすべく、バスは渋滞を避けて上記の壁と門先ず訪れて、その後にベルガモン博物館に到着し、ここは入場する。興味をひいたのは、2005年のトルコ旅行で訪れたベルガモン神殿を移送して展示し、それを軸に中近東の多くの遺跡を集めている。

博物館の内部中央には発掘されたベルガモンの都市遺跡からの「ゼウスの大神殿」をそのまま再建し、博物館がまさに鞘堂の役目をしている。他にも、古代バビロニアの「イシュタール門」も見事な彩色を残して展示されている。現地ガイドの話では、オスマントルコ政府と契約を取り交わして譲渡され、それにより盗掘、破壊や散逸を避けられた、との事である。古代文明の遺物の多くは欧米の博物館に展示されているが、昨今は、それら文化遺産を故郷へ帰すべきだとエジプトなどが叫んでいる。これら遺跡をエアコンの効く巨大な部屋より、元あった場所で眺める事の方が素晴しいに違いないのだが・・・

ベルリンの壁の片陰黙の列  

 

運河沿う古びたテントや蚤の市

 

夏微光ポツダム宣言成りし部屋

 

チャーチルの部屋に犬の絵日雷