こうして、スワヒリ語をもじったりするくらい、東アフリカはタンザニアで生活した5年間の想い出は懐かしくもあり、貴重な体験だったと思っています。

ですから、今日は、私の得意分野で、皆様方には余りご経験がないと思われます、アフリカについて自作の俳句を交えて話をさせてもらいます。<HPの句集「サファリ」のアフリカをクリックして戴きます>と言った感じです。

アフリカと云いましても、アジアについで大きな大陸です。資料に地図を入れましたが、今日は東アフリカを主体としたお話です。地図上の横の一線は赤道です。

因みに1995年(平成七年)に角川書店から「ふるさと大歳時記」の別巻として、立派な「世界大歳時記」(17500円)が出版されましたが、タンザニアの句は隣国「ケニア」の中に7句だけ載っていました。
「ケニア」も「タンザニア」も独立国なのです。少し好い加減ですね。日本が中国の一部みたいに書かれた、それと同じ程度です。

それでは、先ず、このスワヒリ語の世界的ヒット曲であります「マライカ」をお聞き戴きます。
歌っているのは、ハリー・ベラフォンテとミリアム・マケバです。

歌詞(スワヒリ語)
   Malaika, na kupenda Malaika.
   Nami ni fanye je!
   Kijana mwenzio!
   Nashindwa na mali sina we.
   Ningekuoa Malaika.

   Kidegee, hukuwaza kidege,
        Ningekuoa mamio,
   Ningekuoa dada
   Nashindwa na mali sina we.
   Ningekuoa kidege.

(大意)
          
  
  
私の天使よ
    
私はあなたを愛している
     #私はどうしたらいいのだろう
     
私はあなたと結婚したいのに
     
お金がない
          
    私のかわいい小鳥よ         
 
#繰り返し           

少しスワヒリ語のアフリカに浸っていただけたでしょうか?
この曲は東アフリカで過ごした者にとりましては、とても郷愁を感じる歌なのです。

それでは、前置きが長くなりましたが、三つのパートに分けてお話をさせて頂きます。

最初は我々家族が住んでおりました、タンザニアのダルエスサラームでの話を致します。
それから、本格サファリの体験記。
最後に近隣の国々をまじえての当時のアフリカの世相です。

私がタンザニアで生活したのが、1972年(昭和47年)から五年間です。

多くのアフリカの国々は1960年代に独立しました。タンザニアも最初は、タンガニーカとして1962年に英国から独立、64年にザンジバル島と一緒になって、タンザニアとなりました。

従いまして、私が赴任したのが、独立して10年頃の時期でございます。

ビクトリア湖を囲むように、ケニア、ウガンダ、そして、タンザニアの三国で東アフリカ共同体を作って、旧英連邦のグループとして、お互いに、補完しあって国つくりと、その運営をしておりました。

でも、その中でも、タンザニアは中国の人民公社の形態に近い社会主義体制をとっておりました。

ケニアはアメリカ寄り、ウガンダは軍事クーデターで立ち上がったアミン将軍の独裁政治でした。

そんな状態でしたから、三国は次第に離れて行き、1976年(昭和51年)にはこの共同体は壊れてしまいました。

社会主義を推進するタンザニアでは、企業は例外を除いて、全て国有化されていましたが、私の会社はその極めて少ない例外として、日本資本100%で比較的自由な工場の建設と経営を任せてもらっていました。

ただ、外貨不足による、工場の原材料や建設機材の輸入には厳しいチェックと制限がありました。

因みに当時のタンザニアは国民一人当たりの所得では日本の約百分の一位でした。年間100ドル前後と記憶しています。日本は1万ドル位だったと思います。国連の統計では、加盟国の中で、貧しい方から9位でありました。
大変に貧しかったのです。

医療や電気、水道などの生活インフラは正にこれからと云う時期でもありました。

特に教育につきましては、国は力を注いでおりましたが、独立後の間の無い時期でしたので、7年の義務教育の最初の卒業生が出たばかりでした。卒業直後には地方へ教師として廻すような、自転車操業的な先生不足な状態でもありました。

<↑ラジオの工場内部>

<第一期の採用従業員→>


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