エッセイ:タンザニアから帰国して(1977年当時のメモ)
5年の任務を終えて、いよいよ日本へ帰任が決まって、工場の人達が送別のパーティーを持ってくれた。
帰国便の2週間前の週末にバー・サバンナへ皆で集めたお金で、私を招待してくれた。200人以上の工場の全員がお金を出してくれたらしい。ただ全員は場所の広さで集まりきれないために、何人かの男女の社員が代表として集まってくれた。
そのバー・サバンナは町から15Kmほど離れたところにあり、カシューナッツとマンゴの木の間にあって、藁葺の建物で、壁はなく、ダンス踊り場とその周りのテーブルは吹き抜ける風が心地よい。舞台にはエレキバンドがビートの効いたアフリカ音楽を演奏している。その気になれば、夜更けまで踊り明かすこともできる。
地ビールを4−5本と飲む頃から、着飾った衣装の女性が激しく腰を振りながら、男の腰へリズムをとってぶつけるバンプに楽しく興じた。黒い仲間と一緒に彼らの息と汗でムンムンしながら踊る。次々と曲が変わり、相方の女性も変わる。激しいリズムで踊りに付いて行くのがやっとである。
そんな中、踊りに集中していた子が「日本へ帰ってからも、忘れないで欲しい」等と尻をぶつけながら話してくる。目が潤んで本当に別れを惜しんでくれ、胸が熱くなる。実に素朴な人達と一緒に過ごせた幸せを思い、また、この国の人達はつくづく純粋な心を持っていると思う。何の遠慮もなく、思った事をストレートに口に出す素直さに、楽しい宴のなかにも、別れの淋しさを感じた。
帰国の当日は、朝会に特別なセレモニーを組んでくれた。全員が集まってくれて、彼らの代表の送辞もあり、回教の礼服と杖を記念に贈られた。服はその場で着た。また、歳をとってもタンザニアを忘れないようにと杖も添えてくれたのだ。
朴訥な言葉と贈り物に心を打たれて、感謝の挨拶をして、皆で送ってもらった。
5年前の1972年には彼らの殆どは失業者として、職を求め、毎朝、首都ダルエスサラームの数少ない工場の門前に集まり、そこでの求人を期待して待っていた。“ナショナル”でラジオの生産を始めるというニュースは、彼ら求職者の間に広がり、求人広告を出さなくても、毎朝7−8時には群れが門の外に出来た。そんな中から、人を集めた。
1962年の独立以来、この国も他の60年代に独立したアフリカの諸国と同様に、教育にを最重点として、国家建設の礎を築く気概は高い。制度的には7年の義務教育を全国民に課してはいるが、現実には、教師、教室、教材の不足、更には、戸籍も不十分で、地方では機能している役場もない。学齢児の数の把握も十分ではない。当時は全人口の半数以上は文盲であった。
門前に群れを成している人達から入社試験を行って選抜する。 7年の義務教育の修了証を持っている人が最初の条件である。勝手な判断だけれど、人相も参考にする。彼らは肌は黒いが、骨相的には、我々日本人と似ている。日本の友人や同僚にそっくりな人までいるのだ。そうして、工場に入ることができた、一次通過者に対して、入社試験を行う。試験問題は全て簡単な算数の四則演算で10問、時間は40分である。答えは数字なので、私にも採点ができる。
結果は、大変に悪い。計演算が二桁以上になると殆ど正解を得られない。中には12年の高等教育を修了した人もいるが、彼らも分数が入ると殆ど全員が出来ない。この算数のみで判断すれば、小学校2-3年の程度である。その中で選抜した。
タンザニア人の名誉のために言えば、これは彼らの能力が低いのでは決して無かった。教育が貧しすぎるのである。黒板を使っての教育は最上級で、マンゴの木の下で土に字を書いて習った人もいた。そんな学校を卒業して、若干の訓練を受けて地方の先生として赴任する。建国の教育の気の長いサイクルを繰り返すのである。しかし、彼らも工場に入れば、向上心がとても強く、次第に知識を得て、器用、不器用はあっても、1−2年で仕事をこなして行けるようになるのだ。
最後は面接試験を一人ずつ人事担当者の現地人とスワヒリ語で行う。この面接でのポイントは出身部族のチェックである。入社の後での部族間の諍いを避けるために、万遍なく、いろいろの部族からの人を集める。
キリマンジャロの裾野の草原(サバンナ)はタンザニアでも雪解け水が流れる肥沃な土地で、しかも景観なども日本によく似ている。そんな為か、そこの出身のチャガ族は骨相的にも、性格的にも日本人に特に似ている。また、彼らは比較的、教育の機会も良かったとかで、試験の成績も他の部族に比べて優秀である。だから、そのまま、採用すれば、チャガ族が大半になってしまうので、この面接がフィルターとなって、部族を多岐に亘って採用するようにした。
以上のような激しい(?)競争に残って入社した人達は、何と云っても、素直さという点では、日本人よりはるかに勝っているように思われ、真っ白いキャンパスに絵を描くように習熟した知識が染み込んでゆく。
一般的に当時のタンザニア人の多くは、日本はヨーロッパかインド辺りに位置する遠いところにあり、日ごろ目にする進んだ物の象徴である、自動車、時計、カメラ、ラジオに日本製が多いことから、世界で最も進んだ金持ちの国と思っていたようだ。
だから、そんな国から来た日本人は何でも知っているスーパーマンとして、頼りにされる。ここに赴任した日本人も彼らの期待に応えて、真摯な気持ちで、自分の持っている知識や技術をこの国のために活かし、また、残して行くつもりで働いていた。また、彼らはよくそれに応えて、一緒に働いてくれた。
中には、私の場合、休日出勤をかってでも工場の保守を勤め、生産技術を身に付けるしっかりした人も現れ、彼には、その後、工場設備拡張の際に、設備導入の勉強のために日本まで出張してもらった。彼の村中の人が飛行場へ送りに来た。帰りも迎えで当時の狭い飛行場が混雑したのが印象的であった。
社会主義を標榜するタンザニアでの工場の運営に、独裁政党(TANU)より横槍が入った競争原理の手法を、腹を括ってやり通し、生産性を高めたり、また、失敗も盗難も工場襲撃の強盗などいやな事もあったが、赴任中の5年間、終わってみれば、みんな楽しい思い出として残っている。
<従業員に贈られた礼服と杖>
<記念のカラー写真を全員へ贈って好評(これはラジオ累計20万台達成の時)>