しまなみ海道の旅(2025年4月15日〜17日)

今回の旅は福山にお住いの酒井さんご夫妻の丁寧な旅作りに加えて、好天にも恵まれて愉快な二泊三日を楽しみました。

415日(火)

藤沢からは在来線で小田原へ、ここから新幹線「こだま」で名古屋へ、名古屋か「のぞみ」に乗換えて福山へ移動した。新幹線は「こだま」も「のぞみ」も満席で、インバウンドの観光客が多く、大きな旅鞄が棚を占めている。この日は曇天で車窓からの景色を楽しむ事は無かったが、昼食を車中で済まし、予定通りに13時に福山駅に到着した。新横浜から同じ「ひびき」で到着した佐野さんご夫妻共々、福山駅で酒井さんの出迎えを得た。

この時の気温が7度ほどで、些か寒い。駅前の福山ニューキャッスルに少し早い時間だったが、酒井さんの顔が効いて、部屋に入ることが出来た。

 一時間ほどの休息を福山城をすぐそこに見下せる部屋で過ごせた。これまでは新幹線の福山駅停車時に僅かに見えた城の全貌があった。桜の樹々は相当に散ってしまったが、何人かの余花を楽しむ人も見える。

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<福山城の夜と朝>

       春の夜や白を極める天守閣               明るさを留める余花の福山城

 休息後、井原市の平櫛田中作品を展示している美術館を訪問した。平櫛田中は明治・大正・昭和に亘って木彫の制作活動をつづけ、近代彫刻界の巨匠だ。迫力ある代表作品「鏡獅子」は東京は国立美術館の改修工事の為に、この井原の美術館へ里帰りして、展示されていた。多くの人物像はその一瞬の表情を彫り上げて、観る人の心に迫る。107歳まで活動を続け、名言「いまやらねば いつやる わしがやらねば たれがやる」からは、八十路の我々へ喝を入れられた迫力があった。


<平櫛田中の作品 美術館内は撮影禁止の為カタログより>

       老春や平櫛田中鏡獅子                  春愁やカメラ使えぬ美術館

 夕食会は酒井夫人も加わり、華やかで愉快な時間を過ごせた。福山で屈指の日本料理店「さむらい」の女将とは懇意の酒井夫人の良き注文に応えて、新鮮な瀬戸の鯛や蛤などの海産物と、筍やゼンマイなどの春野菜、〆の鯛飯まで贅を尽くしたコース。加えて、お勧めの地酒も入って贅沢な会食を楽しんだ。酒井さんは永年に亘って学童通学の交通整理をされていて、子どもたちから、感謝の写真ファイルを贈られた。席上そんなほのぼのとした話もあり、心打たれるものでした。
 その夜の福山城は23時過ぎまでライトアップされていた。

       おすましは蛤それも瀬戸の産              炊きこまれ土鍋にでんと桜鯛

416日(水)

 9時にホテルを出発し、いよいよ、本命の「しまなみ海道」の旅へ向かう。この日はマイクロバスに3夫婦をの乗せて、ドライバーの村上さんが安全運転で愛媛県は松山までの長距離ドライブとなる。村上さんは酒井さんと関係された電材関連の仕事を退職して、その後に運転手で現役をされている。

 しまなみ海道は広島県尾道市から、愛媛県今治市へ六つの島を西瀬戸自動車道、通称「瀬戸内しまなみ海道」が繋いでいる。六つの島は、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島で、立派な橋で結ばれる。自動車道路だけでなく、サイクルロードもあって、酒井夫妻はこのルートを楽しんだと云う。

 前日とは異なり、好天に恵まれて瀬戸の島々を眺めながら、先ずは大三島の大山祗(おおやまずみ)神社で参拝する。解説では、「神武天皇東征にさきがけ、祭神の子孫・乎千命が先駆者として、伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていた時、芸予海峡の要衝である、ここ大三島を神地と定めた事に始まる、と伝えられている」とある。境内に入って、乎千命お手植えとされる樹齢2600年の楠がご神木として祀られている。拝殿前の広場は廻廊で囲まれて、その入り口の神門は菊の紋章で、皇室との所縁も深いと思われる。

 神社の横に武具館があり、多くの鎧兜や太刀などが展示され、その多くは国宝や重要文化財に指定されていて、その中でも源頼朝、義経など源氏の所縁の奉納が多い。その横には近代的な海事博物館が建っている。ここには昭和天皇の海洋生物研究のための採集船「葉山丸」と館内中央に置いて、動植物の標本などが展示されている。タンザニア時代に集めていた貝の収集品の展示もあった。

<大山祇神社の入口 と 樹齢260年の楠のご神木>

       すかすかの老神木の芽吹きかな             涅槃吹く奉納武具は源氏のみ

 昼食は多々羅大橋を望む道の駅でみな同じうどんで腹を満たす。バスから降りて来た団体の中国人観光客も加わり、道の駅の食堂は一気に賑わう。ここはレンタルでサイクリングを楽しむ事も出来る。「サイクルリストの聖地」と記した英国のストーンヘンジ風な石もあり、多くの白人サイクリスト達が写真を撮り合っている。
 次に向かった大島の「村上海賊ミュージアム」は村上水軍の旗印をビルに巡らしている。村上水軍は中世の瀬戸内海で活動したと云われ、能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の三家からなる「三島村上氏」と呼ばれている。瀬戸内海の潮の満ち引きでも特にその流れが速い所の島に居城を構えていた。海賊とも水軍(水先案内)とも呼ばれているので、その両方に携わっていたらしい。宣教師ルイス・フロイドが「日本最大の海賊」と評したと云う。しかし、豊臣秀吉の時代には姿を消して、関ケ原の戦いでは西軍につき、毛利軍に組み込まれている。ドライバーの村上さんもその末裔かもしれない。
 
<サイクルリストの聖地と記した石
>             <村上海賊ミュージアムにて>

        春風や銀輪連ね大橋へ                 花は葉に海賊やがて水軍に


 次に大島は亀老山の展望台を目指す。村上さん運転のカーナビにはこの山頂までへのナビ指示が出ないとかで、少しうろうろした様だが、無事に到着した。標高301.1mの亀老山展望公園は、大島の南端に位置し、隈研吾氏設計のパノラマ展望台ブリッジからは、世界初三連吊橋「来島海峡大橋」と日本三大急潮のひとつ「来島海峡」の潮流を眺める事ができた。これを求めて険しい山道を登るサイクリストは何人もいた。帰りがけには藻塩を振りかけてのソフトクリームを茶屋で楽しむ時間もあった。

<亀老山からの景、橋の先は四国の今治>

       春なれやしまなみ海道ケンケンパ        春潮や伊予はいよいよ橋の先


 山を下り、しまなみ海道の最後の橋を渡り、四国の今治市へ入る。そして、車は、そのまま、松山は道後の「ふなや」に到着した。そこで、マイクロバスとは別れ、村上ドライバーは帰路に向かった。部屋に荷物を置いて、男3人で浴衣に着替えて、道後温泉本館の「坊ちゃん湯」へ行く。昨年の12月まで約6年にわたる保存修理工事が行われていた建物は、以前に来た時に比べて、外観も「坊ちゃん湯」もあまり変わらないが、風呂には結構なインバウンドの観光客が風呂場にいた。

 風呂から宿に戻り、仕切られた間での和食の晩餐会、この日も瀬戸内海の新鮮な魚介や春菜に加えて、地酒も入って大いに楽しむ。

<道後温泉本館 と 坊ちゃんからくり時計>

       うららかや多言語の飛ぶ坊ちゃん湯           一遍の産湯にひたる目借時
             

417日(木)

 朝食後、「坂の上の雲」のミュージアムへ行く。佐野さんはその前に旧友の墓前にお参りしていた。

 司馬遼太郎の作品の小説、秋山好古・真之、そして、正岡子規を中心に松山出身の多くの人物を登場させて、近代日本の国家をめざす明治が描かれている。この小説のオリジナルは産経新聞に5年以上1296回に亘って連載されたと云う。その後に出版された本の初版を以前に読んでいたが、こんなミュージアムにまでになるとは大いに驚いた。最近BSテレビで再放送もあった。建物は建築家の安藤忠雄氏とか、近代的な逆三角錐のデザインで、坂の上へなだらかな坂を登って行くように展示がされている。

 次いで、道後の子規記念博物館へ戻り、松山市の学芸員の若い女性(一年目とか)に、リニューアルされた正岡子規の生涯にわたる展示を解説して貰った。20年前にもここを訪ねたことがあるが、正に様変わりしていた。今の時代に合わせてのタッチパネルや大型モニターでの記念写真などが今風というべきなのだろうか。そして、子規の俳句への情熱、文学としての評論など、彼が居なければ、今の俳句界はそれほどの文芸としての価値は高まらなかったのだろう。

 この日は松山出身の偉人を称える二つのミュージアムを観たのだが、親藩として云わば戊辰戦争の賊軍側として迎えた明治時代は苦しい時を過ごした中で、子規や漱石、そして、秋山兄弟などが活躍したのは極めて面白い。

 昼食は、和食が続いたと云う事で、酒井さんの配慮で道後の高級イタリアンに変更されていた。ピザとパスタで十分に腹を満たし、荷物を取りまとめて松山空港へ向かった。機内は満席で、羽田空港へは些かの遅れもあったが、都心上空を通過して無事に着陸した。

 酒井さんのご夫婦には旅作りの労をとって頂き、楽しい三日間を過ごしました。感謝!!


<坂の上の雲ミュージアムにて産経新聞連載時の紙面>        <子規記念博物館>

        春雲や明治を駈けし男たち                  竜天に子規赤丸の清記表


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