奥会津と只見線の旅(2024年11月7~9日)
「紅葉の奥会津と只見線乗車の旅」と銘打ったユーラシア旅行のパックツアーに参加した。きっかけは妻の疎開先が会津で、些かの郷愁を叶える意味合いと、東山温泉の連泊も魅力的で、それが参加の動機だったが、結構なプログラムで十分に楽しむ事ができた。
初日、11月7日(木)
東京駅より郡山へ東北新幹線(やまびこ127号)で、そこから観光バスで裏磐梯へ向かう。13名と添乗員で14名、それに、バスガイドと運転手で比較的少人数の団体旅行。大型バスなので、二人用の座席を使えてゆったりとした空間だ。天候は曇り時々晴れと云った状況で、北風が強く、気温は10度以下
裏磐梯では「諸橋近代美術館」を訪ねる。創立者の諸橋延蔵氏(1934~2003)は福島県出身、一代でスポーツ用品、紳士服販売で財を成し、それまで収集した美術品と美術館用地、建物等を1999年にこの地の公益財団法人諸橋近代美術館へ寄贈した。美しい自然に包まれた建物で、その形からヨーロッパの馬小屋などとも云われるそうだ。
コレクションには諸橋氏が大いに衝撃を受けた、サルバドール・ダリの絵画と彫刻の作品が多い。シュールレアリスムの巨匠と自ら名乗る自信の強さが、作品に表現されている。これだけのダリの作品の展示は他に知らない。他にもセザンヌ、ルノワール、ゴッホやピカソなど、そしてイギリスのPJクルックの作品も面白い。 館内の作品は一点を除いて撮影禁止となっている。

近くのイタリアンレストランで昼食、今回の参加者は男性3名のみ、つまり、3夫婦が参加して、残りは元気な高齢女性ばかり。相席は自然と夫婦連れかたまる流れとなる。
額も絵に取り込む鬼才ポインセチア ダリの絵を前にしばしの懐手
昼食後は近くの五色沼へバスは進み、紅葉が見事な湖畔を散策する。ここは磐梯朝日国立公園に指定されている。正確には「五色沼湖沼群」といわれ、巡った毘沙門沼、赤沼、みどろ沼、竜沼、青沼など多くの湖沼の総称だ。天候や季節や見る角度によって色が違って見えるためにこの「五色沼」と名前が付けられた。巡った毘沙門沼には、白い身体の左側に赤いハートのマークを付けた「幸せを招く鯉」がいると入口の看板にあったが、見る事も無いだろうと気にも留めなかったが、少し後ろを歩いていた女性から「見た!」と興奮して話していた。見損なって些か残念な想いだ。

紅葉かつ散るや無人の貸し舟屋 恋を呼ぶ鯉を見たとか冬帽子
五色沼から猪苗代湖へ向かう途中、標高800m程の磐梯南山麓、猪苗代湖が一望できる天鏡台に立寄る。振り返れば、磐梯山に初冠雪が眺められた。訪問客は他に誰もいない。
この地で、昭和45年に開催された第21回全国植樹祭が行われ、それに併せてアカマツとカラマツの人工林が作られている。この時、昭和天皇のお手植えの松もあるが、その後の強風でこの松は三つ割れてしまった。それでも、丁度訪ねた時には、重機も使っての雪吊り作業が進められていた。三本の幹を支える困難な雪吊り作業、そんな風に親方が話してくれた。その時の御製「松苗を天台鏡にうゑをえて いなはしろ湖をなつかしみ見つ」の碑がその松の真ん前に置かれている。
次に猪苗代湖畔に1907年に建てられた有栖川威仁親王の別荘を訪ねる。当時は湖が一望できて、皇族だけでなく、海外の賓客も訪れたようだが、今はペンキも剥げ朽ちかけた建物だ。それでも、国の重要文化財に指定されて、維持には苦労も多そうだ。部屋などを見学したが、玉突き台が置かれた遊戯部屋も含めて、決して豪華とは言えない作りに思える。屋外には有栖川殿下の像が高く聳えてはいるが、侍る使用人の建物は質素にすら感じられる。紅葉、落葉で風情はあったが・・・

宿泊する会津若松市の奥座敷、東山温泉へ到着。ここは約1300年の歴史ある温泉郷で、泊まった「原瀧」は源泉かけ流しを謳っている。夕食前にひと風呂をと湯場に向かった。露天風呂の方からは湯川の成す5m程の滝を眺められる。
食事は会津産の食材などを使っての丁寧な懐石料理で、個々のグループが別テーブルとなっていた。酒蔵も多い会津では日本酒が旨い。
夕食後は畳部屋の蒲団に潜って爆睡した。
二日目、11月8日(金)
朝食後、奥只見へ向かう。JR只見線は福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶ全長135.2Kmの路線。国内屈指の豪雪地帯の為に並行して走る国道252号は冬期通行止めになる事も多く、この鉄道が唯一の交通手段となる。2011年の東日本大震災と更に追い打ちかけるような同年7月に新潟・福島豪雨で甚大な被害を受けた。只見線は橋梁の流失や土砂崩れによる線路の崩壊で甚大な被害を受けた。JR東日本の懸命な復旧作業により11年を掛けて、2022年に全線運転再開となった。
復旧後の会津川口駅~只見駅間についてはJR東日本と地元自治体の共同責任の形を採っている。鉄道施設と敷地を地元自治体がIR東日本より譲り受けて保有し、その維持管理を行う。自治体はその保有する鉄道施設のメンテナンスなどの管理をJRに委託し、JRはその鉄道施設の貸与を受け、運行を行う、と云うもの。利用者は。この対象区間の前後を含め、これまでと同様に利用できる。珍しい「上下分離方式」として鉄道は運営されている。
<同様にようやく復旧に至った三陸鉄道の場合は、第三セクター方式の鉄道会社。通称は三鉄(さんてつ)。岩手県及び岩手県内市町村が出資の80%を占めている。>
そんな苦難な状況を経て再開通した只見線は自然溢れる景観と相併せて、鉄道ファン、所謂、「撮り鉄」「乗り鉄」が多く、その情報発信は海外にまで広がって、インバウンドの観光客をも集めている。この旅にはその両方を楽しむ行程が組まれている。
先ずは「撮り鉄」を楽しむ。その見どころのひとつ、第一只見川橋梁ビューポイントへは昨日の雨で濡れた木道階段を登る難所だったが、おおくの撮り鉄が犇めく様にカメラを備えて、橋を渡る電車を待ち構えている。二両編成の電車が鉄橋を渡るその時には、一斉にカメラの操作が始まる。日に数度しか走らない只見線のショットだから、だれもの高揚感が最高に達する。電車の運転手も心得て電車の速度を落として期待に応えるらしい。四季を通じて素晴らしい写真が期待されるが、この日の紅葉渓の只見線も素晴らしい。
「撮り鉄」も「乗り鉄」もまた小春かな 錦秋や水の鏡のアーチ橋
「てっちゃん」の添乗員はこの時間をしばし待てば逆方向からまた電車が渡るので、と説明して数十分待てば、確かに通過して行った。その間、ほとんどの撮り鉄マンは動かず、貴重なこの瞬間を二度楽しんでいた。

第一只見川橋梁ビューポイントにて、左右は同じ写真
二台目の通過を終えて、急坂の泥道を列をなして下り、再びバスで更に上流へ向かい、「霧幻峡の渡し」へで観光渡舟で楽しむ。数十分間、船頭の解説などを聞きながら、静かな湖面のような只見川の瀞場を周辺の秋を楽しむ趣向だった。我々の女船頭は村の職員でもあった。

霧幻峡の渡しにて、
軋む櫓の水面の秋を揺らしけり 菅笠のおんな船頭の声莢か
道の駅での昼食(アザギ大根高遠そばとミニソースかつ丼)後、水沢只見橋ビューポイントで列車通過の写真を撮影する。ここにも何人もの「撮り鉄」が待機している。

水沢只見線ビューポイントにて
竜淵に潜む電車は緩やかに 「撮り鉄」の邪慳に除ける芒かな
午後の「乗り鉄」前に、只見駅近くの「只見ぶなセンター」に入る。只見町は「豪雪が育んだ自然と生活・文化を守り、活かす<只見ユネスコエコパーク>を標榜して独自の振興を推し進めている。この建物内は只見地域の自然環境、生物の多様性などが実物の採集された多くの動植物などの展示と共に、素晴らしい内容だった。
ブナと川のミュージアムの建物 と その内部
センターの壁に貼りつく熊の皮 木漏れ日や山毛欅の紅葉の高みより
只見駅から会津柳津駅までの区間、約2時間半は「乗り鉄」観光へ移る。車内は観光客で座席は殆んど埋まっていたが、途中の乗降もあり、直ぐに座れた。


「撮り鉄」と手を振り交わす小春かな 観光の乗客ばかり小六月
只見線の沿線の風景は穏やかな秋、山間の田は既に刈られて厳しい冬の準備に入るころなのだろう。沿線の人達がこの全線再開通をどれだけ待ったのか、その喜びを、手を振って示し、また多くの場所に「只見線に手をふろう!」と染めた幟が立っている。「撮り鉄」の誰もが被写体の我々の乗っている電車に手を振って、それに、応える様にこちらもてを振る。実に素晴らしい心の交流だ。先ほど楽しんだ「霧幻の渡し」では、あの舟頭も手を振っているが見えた。
下車した会津柳津駅は「赤べこ発祥の地」とか、大きな看板などで売り出し中と云った感じだ。既に半月が空に上がり、一路、東山温泉に戻った。
三日目、11月9日(土)
東山温泉を出発して飯盛山へ向かう。今はスロープコンベアで登れて楽だ。更に階段を少し登れば白虎隊十九士の墓がある。ここでは16~17歳の20名がここで自刃をしたが、ひとり飯沼貞吉が生き残って、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く知れ渡った。彼の墓は少し離れて置かれていた。その墓苑広場には、白虎隊の精神性に感銘したとして、イタリア記念碑(ムソリーニから)とドイツ記念碑(ナチス印をつけてドイツ大使館付武官から)がある。何れも第二次大戦以前のものだ。そして、戦後には米兵によってこれらから碑の一部が持ち去られたとの事。
その後、さざえ堂へ行き、螺旋階段を誰とも行き交うこともなく昇り降りした。正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といい、寛政8年(1796年)に飯盛一族の先祖によって建立され、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂で、国の指定重要文化財に指定されている。少し下れば、戸ノ口堰洞穴があり、白虎隊が逃げ延びて飯盛山へたどり着いた、と云われる。


白虎隊士の墓 さざえ堂
冬もみじ香煙切れぬ隊士墓 冬ぬくしダヴィンチ風なさざえ堂
10分程バスで鶴ヶ城へ移動する。1384年に葦名直盛が築いた館を起源として、1593年に蒲生氏郷が東日本で初の天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名した。1868年の戊辰戦争では新政府軍の一か月に及ぶ猛攻に耐え、難攻不落の城として名を馳せた。1874年までに、天守閣をはじめ全ての建物が取り壊されたが、1965年に天守閣が再建され、2011年には屋根瓦が幕末当時の赤瓦に葺き替えられた。ガイドの解説を聴き、その後は天守閣に登って、好天の会津若松市内や四囲の山々を眺めた。

昼食は七日町の商家で会津の郷土料理を楽しむ。些か疲れも食欲が今一つでない。七日町通りの明治、大正、昭和に栄えた蔵や、洋館、商家などが立ち並ぶ街道を自由に散策した。川越の様だが、それほどの感激は無い。
順調に旅程が進んで、旅行社は気を利かせて大内宿へ特別に寄る段取りを採って呉れた。ここ大内宿は江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な宿場町として栄えた。その当時の面影を残して藁ぶきの民家が街道に立ち並び、多くの観光客を集めていた。インバウンドととても多い。

大内宿にて二景
夕闇が迫る中を、大内宿から新白河駅へ向かい、そして、東北新幹線で上野経由で帰宅した。