1、   この絶海の孤島に誰が、どこから、どうして、住み着いたのか?

世界で最も人里離れた居住可能な孤島だ。チリ領なのだが、南米大陸から3700キロ、最も近い有人島(ピトルケン島)まで2000余キロも離れている。

広大なポリネシアの東端のイースター島

2、   何のためにモアイ像を作り、そして、打ち壊され、捨てられたのか?

3  なぜ人が島から消えたのか?

ミッドウェー海戦めき雲湧くや翼下夏



赤道を越え雲上の大朝焼

1日目(3月21日)

成田発のタヒチ航空定期便で、11時間以上を掛け、日付変更線と赤道を越えて、タヒチのパペーテ空港へ、更にチャーター便のタヒチ航空機で5時間半を掛けてイースター島へ到着した。

タヒチからのチャーター便は複数の日本ツアーの混成で同乗しており、機材のエアバスは定員の294がほぼ満席だ。イースター島へ到着したのは現地時間の同日の18時過ぎとなった。

入国審査はユニークだ。個別にするのでは無く、ツアー毎に旅券を集められて、審査吏に渡し、2日後の出国時に返却されるシステムだ。島内では旅券無しの状態で、少し心もとない。

ホテルは平屋の石造りで、屋根には草が生えている。先住民の住居に倣ったデザインで、敷地も部屋も広々として清潔だ。14時間の時差を考慮すると、正に徹夜明け。この日はホテルに入ってただ爆睡となる。

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イースターその日その名の島に立つ

小豆島ほどの絶海の孤島

イースター島とタヒチ島

<はじめに>

南太平洋に浮かぶイースター島は、現地ポリネシア語名はラパ・ヌイ(Rapa Nui:広大な土地)、正式名はスペイン語でパスクア島(Isla de Pascua:復活祭)と云われる。

モアイ像の立つこの小豆島ほどの小さな島には興味があったが、余りの遠さで、正直、ここへの旅は諦めていた。
ところが、M氏から借りたジャレト・ダイヤモンドの「文明崩壊−滅亡と存続の命運を分けるもの」を読んでこの島に強く惹かれ、更に、タヒチ経由のチャーター便が、名前に由来するイースターの週にあると知って、ツアーに申し込んだ。

等々で、多くの学者や冒険家の推理・実証などを窺いつつ、今回、実際に自身で現場を目にして大いに心を沸き立たせる事ができた。

イースター島の魅力は不可思議なモアイ像をはじめとして、多くの謎があり、未だ納得できる解明がされていない事だ。
この島を訪ねた人は以下の疑問の謎解きに自らの想像を重ね、ロマンで心をときめかす。

目も入って完成した復元モアイ像
(タハイ儀式村)

1722年のイースター(復活祭)の日にオランダ人ヤコブ・ロッゲフェーンがこの島を発見しとき、この島は一面に草で覆われて、3メートルを越える樹や藪が一本もなかったと報告されている。虫より大きな固有の陸上動物の姿を見かけることは無く、家畜として鶏がいるだけだった。

ロッゲフェーンの船へ島民たちが泳いだり、或いは水漏れする「粗末な貧弱な」カヌーを漕いだりして近づいてきた。陸地を見ずして当時の大型の帆船でチリから17日もかけて太平洋を渡ったロッゲフェーンは、「この自分達を歓迎しているポリネシア人たちはどうしてこの絶海の孤島に辿り着いたのだろう」と思う。

しかし、それ以上に彼が当惑したのは、イースター島の巨大な石像群だった。ロッゲフェーンは「石の彫像は信じがたい驚きだ。島民たちがどうやってこのような巨大な石像を起立させたか理解できない。島にはそれをするに必要な固くて太い樹木などは無い」と記している。