サマルカンドは「青の都」「イスラムの宝石」「東方の真珠」などと称えられ、常にシルクロードの中心都市として栄えた。

紀元前10世紀ころからオアシス都市として「マラカンダ」と呼ばれ、ギリシャ史料によれば、紀元前4世紀にこの地を攻略したアレキサンダー大王はその美しい都に驚嘆したと記録されている。

紀元前2世紀には漢の張騫がこの地を訪れて、彼の情報から東西を結ぶルートが中国にも伝えられ、やがてシルクロードとなり、玄奘三蔵も7世紀に「康国」と云われたこの地を訪れている。

8世紀にウマイヤ朝に征服されてから、それまでのゾロアスター教に加えて次第にイスラム教が広がりつつ、ホラズム・シャー朝の首都として繁栄した。

しかし、13世紀にモンゴル軍の攻撃で町は破壊され尽くして、無人の地と変わり果てた。それを甦らせたのがチムールで、旧都のすぐ南側にこのサマルカンドをイスラム世界の有数の都市に復興させた。

冴返る首なき王の白墓石

また、日本の教科書にもある学者として有名なウルグ・ベク(ティムールの孫王)の墓もここにあるが、遺骸は斬首されていた。しかし、今では国民の敬愛を受けており、国立大学などには彼の名前が冠されている。

次に、レギスタン広場へ行く。15世紀にウルグ・ベクが建てた神学校(メドレセ)と17世紀に加えられた二つの神学校がコノ字型に囲む広場。ここは公共の場として謁見式や時には処刑なども行われた。
 丁度、結婚したばかりの二人が祝福されていた。我々にも一緒に写真に入って欲しいと云われ、喜んで賑わいの一人となった。ウズベク人の人懐こさなのだ。

かつてのサマルカンドの中心レギスタン広場

宿は家庭的な雰囲気だが、ぬるいシャワーと少ない水量だった。

蛇足ながら、食堂にアンティークラジオが並んでいて、その内のひとつが自分がタンザニアで生産していたラジカセの次期モデルだった。懐かしくもあり、骨董棚とは自身の時代も感じて哀しい。

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グル・エミル廟と内部のチムールの墓(黒石)

麗かや金文様下礼拝す    メドレセの壁に顔あり春愁う

雨が強くなって来た。晴れていれば、空も含めてのサマルカンド・ブルーを満喫して、散策もしたかったが、残念ながら、宿に入った。

 右側のシェルドル(ライオンの事)神学校の入口の壁にはイスラム教義に逆らって、人間の顔とライオンがモチーフとなっている。時の支配者の権力誇示らしいが、責任を取って建築家は自殺した。内には民俗楽器屋があって、いろいろな音を奏でてくれた。この店へ小泉首相が訪れた時の写真もあった。

中央のティラカリ(金箔の事)神学校の青のドームの下には礼拝所があり、その天井は金色に輝いていた。実は平面な天井に細かい写真の様な模様を配して丸い奥行きを出しているらしい。

三つのメドレセの中へ入る。左側のウルグ・ベク神学校内に学者たちの群像があり、ウルグ・ベクもその中で座っている。当時の先進科学はこの地から発して、シルクロードを経由して欧州へ伝わった。

2日目(3月22日)

 タシケントから専用バス(中国製)で5時間程かけてサマルカンドへ向かう。日本語ガイドのマリカさんがこの日から最終日まで付いてくれた。彼女は2000年にタシケントに開設された日本文化センターで日本語教育を勉強した第一期生との事。当時は中山恭子さんが大使をされていた。

風光る廟瑠璃色のアラベスク

バスがサマルカンドに入る頃には、曇天となり、天候は悪い方向へ向かっている。そんな空模様から予定を変えてサマルカンドの最初の訪問地はグル・エミル廟となった。

ここに1403年、中国(明)への遠征時に没したチムールが埋葬されている。廟内の墓石は黒い玉で造られ、息子や曾孫などの墓石も並び、遺骸は地下3mのところの墓室に同じ順で葬られている。1996年に改修され、青いドームや門、それと、金を施した廟内も眩いほどの美しさだ。1941年にソ連の学者の調べでティムールの左足が不自由であった事が確認されている。